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更新日時 2016年05月30日

 旧下野煉化製造会社煉瓦窯(きゅうしもつけれんがせいぞうがいしゃれんががま)は、、栃木県下都賀郡野木町野木にある近代化遺産であり、赤煉瓦の製造に用いられた設備である。国の重要文化財に指定されている。明治21年(1888年)10月、赤煉瓦(レンガ)製造のために「下野煉化製造会社」が設立された。出資者は、三井物産の三井武之助・益田孝・馬越恭平を中心とし、旧古河藩主土井利与や古河城下の豪商・丸山定之助らも参加した。初代理事長は丸山定之助であった。明治22年(1889年)には、野木村大手箱で赤煉瓦の製造が開始される。隣接する旧谷中村(現在は渡良瀬遊水地)では、原料となる良質な粘土が産出し、思川・渡良瀬川の水運により、製品輸送も容易であったため、煉瓦製造に適した立地であった。当初、赤煉瓦焼成窯は登り窯1基だけであったが、明治23年(1890年)6月10日に、「ホフマン式輪窯」と呼ばれる当時最新鋭の煉瓦窯(東窯)が完成し、続いて、明治25年には同じホフマン式の西窯が完成して、赤煉瓦製造が本格的に開始された。このうち、ホフマン式の東窯が現存している。西窯は1923年の関東大震災で倒壊した。明治26年(1893年)、株式会社に移行して、社名を「下野煉化株式会社」に改め、理事長は馬越恭平に交代した。赤煉瓦の生産量は、明治27年(1894年)には475万個、明治28年(1895年)には563万個、明治29年(1896年)には619万5千個と増大し、以後、大正期・昭和期にわたり、工場や鉄道建設のために赤煉瓦を供給した。昭和46年(1971年)、社名を「株式会社シモレン」に改め、昭和47年(1972年)に需要の衰退により、赤煉瓦製造販売が中止された。昭和54年(1979年)2月3日(文部省告示第8号)現存していたホフマン式の東窯が国の重要文化財に指定された。
 @「野木ホフマン館」は、国の重要文化財に指定され、近代化産業遺産でもある「野木町煉瓦窯」に隣接し、ありのままの自然や文化・歴史を学習、体験できるスポットです。 ラムサール条約登録湿地である「渡良瀬遊水地」にも簡単にアクセスできます。レンタサイクルで遊水地や近隣寺社を散策したり、体験学習施設ではミニ煉瓦焼きや手作りピザも楽しめます。
@野木ホフマン館で売られている品々。
@カスリーン台風による被害。利根川堤防決壊により浸水した東武線。
@東輝煉化製造所の煉瓦刻印。 @下野煉化製造会社の煉瓦刻印。
@下野煉化製造会社の煉瓦刻印。 @日本煉瓦製造(日煉)の煉瓦刻印。
@野木町で出土した遺跡の特別展。
@野木町で出土した遺跡の特別展。
@野木町で出土した遺跡の特別展。
@ホフマン窯等の補修に利用されたのは深谷の日本煉瓦製造の煉瓦。H13年の刻印。
@煉瓦を利用した窯のレプリカ。色の白い煉瓦は耐火煉瓦。回りの煉瓦にはH13年の刻印。
 @旧煙突断片(煙突の落下)この断片は、明治23年(1890年)の築造当初のものと思われる煙突の一部です。大正12年(1923年)の関東大震災により落下したものと思われ、南西側の9号と10号窯の煙道間に埋まっていましたが、平成23年から保存修理工事の際に発見されました。現在の煙突の煉瓦積みには、上下で煉瓦や目地の仕様が異なる境目が確認されることから、煙突全長の約半分が積み直されていたことが解りました。この断片は、積み直し部分の厚さが煉瓦2枚から煉瓦1枚半となる煙突内部の段差に位置していたと思われます。詳細は不明ですが、落下した煙突断片の下方などには鉄片も見つかりました。
 @煙突に使われていた煉瓦は明治20年(1887年)、下野煉化製造会社の前身となる東輝煉化製造所が中谷村下宮(現渡良瀬遊水池)が設立されました。北関東最古の煉瓦工場と考えられます。引き続き明治21年(1888年)下野煉化製造会社を創立、同年10月現在地に工場を建設し許可が降りた11月操業を開始しました。敷地は、現渡良瀬遊水池に隣接しており、煉瓦製造に最適な粘土と川砂が採取可能で、渡良瀬川の水運も利用出来る絶好の地でした。Tの刻印は東輝煉化製造所の刻印。
 @ホフマン式輪窯(東窯)は、16個の窯をリング状に並べた連続焼成窯である。焼成中の窯からの熱風を前工程の窯に送って、素地煉瓦の乾燥に利用すると同時に、後工程の窯では、煉瓦を冷却するために取り入れた外気が暖まるので、これを焼成中の窯に送る空気として利用する。時間がたつと、火を入れる窯を時計回りにシフトさせ、半永久的に運転することが可能である。熱の利用効率が高く、大量生産に適した設計となっていた。輪窯の容量は1基当たり28万8000立方メートルであり、通常は、1窯当たり1万4000個、全16窯で約22万個を焼成することが可能である。1年間では輪窯1基当たり、約450万個の焼成能力があると考えられている。焼成温度は約1000℃、燃料は粉炭が用いられた。粉炭は常磐炭鉱のものが使われた。煙突の高さは約34.67メートル、輪窯の周囲は約100メートルである。窯はイギリス積みの煉瓦造で、屋根は鉄板葺きとする。窯内部は高さ2.8メートル、幅3.3メートル、平面がドーナツ形のトンネル状を成し、天井はボールト形である。外壁には16か所にアーチ形の出入口を設け、内壁下方には16か所に中央の煙突に通じる煙道を設ける。窯内は16室に分かれるが、室間に隔壁はない。窯は1979年に国の重要文化財に指定され、ダンパー(煙道開閉装置)16箇が附(つけたり)指定となっている。昭和26年(1951年)には、全国で50基のホフマン式輪窯が存在したとされているが、現在は4基のみが残されている。本輪窯もその一つであるが、ほぼ原形をとどめており、最も保存状態が良い貴重な遺産として評価されている。一方で老朽化が課題であり、2001年にはシモレンが修復に着手したが経営破綻のため中止された。2006年に野木町が施設管理者になり、2011年7月から2016年5月まで野木町が主体となって修復工事が行われた。2016年5月10日に野木町交流センター“野木ホフマン館”としてリニューアルオープンした。
@粉炭の搬入用の階段。 @階段の煉瓦はイギリス積みとフランス積み。
@窯の番号。 @下側は焼きすぎ煉瓦(塩焼き煉瓦)
@補修された11号窯内部。 @床にも煉瓦が敷き詰められている。
@窯の上部から粉炭を投入する投炭孔。
@窯の下部に煙道がある。 @煉瓦を焼くときに火が通るように積む。
@煉瓦と新聞紙で隔壁を造ったそうです。
@第1号窯。
@第1号窯は見学用に鉄骨で補強され監視カメラも付いている。
@落下防止の亀甲金網も付いている。 @点火窯(焚口の再現)
 @煉瓦敷きと排水溝。煉瓦窯周囲に窯内の床と一連のものである煉瓦敷きと排水溝が確認されました。一部は今も地面の下に残されている。
@粉炭の搬入用の階段。 @煙突補強用のワイヤー基礎。
 @窯の天井の上部には幅5.6メートルの床面がドーナツ形にめぐり、その外周には高さ1.1メートルの胸壁がある。この床面の内縁と外縁には炭の運搬用のトロッコのレールが一周する形で敷設され、これらに挟まれた床面には一面に投炭孔が配置される。
 @粉炭の運搬用トロッコレール。窯の上部の外側と内側にはレールが敷かれています。3本のうち中央の1本は大型炭車用よして増設されました。
 @木造上屋(断面五角形の柱)16の窯を覆う木造上屋の柱は16角形の屋根を支え、断面が五角形になっています。木造上屋の浮き上がり対策として、柱足元は窯上部をまわるコンクリートリングと緊結しています。
@ホフマン窯の煙突。
@柱の継ぎ手。
@ダンパー(煙の流れを調節) @投炭孔の蓋を開けた内部。
A渡良瀬川に降りる道路脇にも煉瓦の擁壁が残る。
A積み方はイギリス積みのようだ。 A屑煉瓦も捨ててある?
B(株)シモレンの看板が残る。 B熊野神社の石碑の基礎にも煉瓦。
B熊野神社の擁壁は横が煉瓦運搬の馬車道になっていたためか下野煉化製造の煉瓦が使われている。
B煉瓦は3級品又は屑煉瓦が使われているようだ。 B熊野神社境内土留土盛工事之記。
煉瓦七分下野煉瓦製造株式会社
煉瓦三分大字野渡負担
運搬野渡馬車一同献納
土運搬氏子一同献納
大正15年3月
C新井家ふるさと記念館(私設)旧新井製糸所址。
C旧新井製糸所址説明所。 C旧新井製糸所址倉庫外観。
C旧新井製糸所址倉庫外観。
 C旧新井製糸所址倉庫外観。この煉瓦倉庫は屑煉瓦を利用して、煉瓦職人の養成所として煉瓦を積ませる練習をしたため、煉瓦が不均等に為、東日本大震災でもそれが功を奏して崩れなかったと建築学会の人が言っていたそうです。奥の蔵は3級品の煉瓦を使用している。震災で煉瓦が脆いとの風評被害で煉瓦が売れないときに3級品の煉瓦を使い倉庫を建てたそうです。
C1階は生活空間? C屑煉瓦を使っている不均等さ。
数字の刻印は窯の番号と書いてあるが、説明時には職人の番号と言っていた。真相は?
C煉瓦倉庫の二階展示室。養蚕の用品展示がメイン。
C母屋の展示品。ここで生糸の売り買いをしていた事務所跡。
C欄間の段差は梁の勾配により2段と3段。 Cブレーキ付きの大八車(特注品)
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下野煉化製造ホフマン窯