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更新日時 2016年09月27日

煉瓦構造物 江の島サムエル・コッキング苑温室煉瓦遺構
@江の島サムエル・コッキング苑は、明治時代の英国人貿易商「サムエル・コッキング」に由来した和洋折衷で、南国ムード溢れる植物園で四季折々様々な花や植物をお楽しみ頂けます。
@コッキング庭園の温室は、明治中期、英国人貿易商サムエル・コッキングが、江の島に造った庭園の一角に巨額の私財を投じて造られました。大正12年の震災等で温室の上屋は全て倒壊してしまいましたが、煉瓦を主体とした基礎部分や地価に造られた施設が残っていました。
@遺構は3棟の南北に長い温室の基礎と東西に長い温室基礎、西洋風のシンメトリーな形の池、それに温室の北側に設けられた付属施設であるボイラー室、燃料を入れた貯炭庫、植物や暖房のために水を蓄えた貯水槽、温室と付属施設とを結ぶ地下通路、冷たい風を遮るための防風壁集水用陶管などです。池は最近までのその機能を有し、使われていました。コッキングはこの池にも暖房用のパイプを通し、熱帯の水棲植物を育てていたようです。
@コッキング庭園の温室遺構。
@コッキング庭園の温室遺構。
@コッキング庭園の温室遺構。
@コッキング庭園の温室遺構にネコが常駐している。
@貯水槽(上部)この下には、幅約4m、長さ約12m、高さ3m〜3.2mの巨大な貯水槽があります。天井は鉄骨で補強されたアーチ型でアーチは9個連なっています。庭園や温室にとって水は欠くことのできない重要なものですが、江の島に水道が引かれたのは大正15年になってからのことでした。そのため、コッキングは温室の屋根に降った雨水を全て利用できるように温室を設計しました。それぞれの温室には集水用の枡が設けられ、これに接続された陶管を通って雨水は貯水庫へと導かれるように造られています。貯水槽には、空気抜けの穴や貯水量を測るためのの設備もあったようです。現在でも貯水槽として十分機能します。
@ボイラー室・貯炭庫
この下にはボイラー室がありました。東側に接している貯炭庫とは地下でアーチ型の入り口によって繋がっており、ボイラー室と温室は地下通路で連絡しています。外壁には煙突と思われる煉瓦の構造も見受けられます。ボイラー室で暖められた温水や上記は鉄管や鉛管を通じて各温室や池を巡っていました。その鉄管や鉛管がところどころ地面に顔を出しています。貯炭庫には2つのアーチ型天井に、燃料を投入するための穴が設けられています。明治30年の「植物学雑誌」の記述から、コッキングの温室には、蒸気の暖房施設があって、温室内は24度内外に温められており、ランやサボテンなどの植物を栽培していたことがわかりました。
@地下通路。
温室とボイラー室、貯炭庫はT字形に設置された地下通路によってつながっていて、行き来できるようになっています。地下通路の途中にはアクアリュウム(水槽)が二箇所設けられていて、水棲の動植物を飼育していたと思われます。地下通路は幅約1m、高さ1.9mで天井はアーチ型をしており、明かり取りのための天窓も造られています。左手に見える温室は他の3棟の温室と構造が異なっていて、中央部分に地山を残した造りとなっています。当時の温室のカタログから内のつくりを想像することができます。
@コッキングの温室には、スチームによる暖房設備が備わっていましたが、コッキングはシンメトリカルにデザインされたこの池の地下にも暖房用のパイプを通し、熱帯の水棲植物を育てていたようです。(熱帯でしか生息できないオオオニバスが路地で栽培されていたと言われている。)これらの技術は当時としてはかなり水準の高いものであったと思われます。
ここの煉瓦平面に煉瓦の刻印が数多く見つかる。
@コッキング庭園の温室遺構に残る煉瓦の刻印
横浜煉化製造会社の社章の煉瓦の刻印と「い」の刻印。
@コッキング庭園の温室遺構に残る煉瓦の刻印
「ハ カ」
@コッキング庭園の温室遺構に残る煉瓦の刻印
「○カ ハ」の刻印。
@コッキング庭園の温室遺構に残る煉瓦の刻印
「○カ ○カ」の刻印。
@コッキング庭園の温室遺構に残る煉瓦の刻印
「○」の刻印。
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