更新日時 2014年07月24日

 奄美大島(あまみおおしま)は、九州南方海上にある奄美群島の主要な島で、単に大島ともいう。面積712.39km2であり、本州など4島を除くと佐渡島に次ぎ面積5位の島である。年間の日照時間が日本一短い。大島海峡沿岸や湯湾岳などは奄美群島国定公園の一部となっている。1901年2月12日に降雪が記録されているものの、降雪は殆ど見られず、湯湾岳 (694m) や油井岳 (484m) の山頂付近に、ごく稀に雪が積もっているのが確認されたことがあるくらいである。奄美大島の海岸には、サーフィンに適した波がありサーファー達に人気がある。島内には各集落ごとに複数の神社が見られるが、仏教寺院は極少ない。ただし神社のほとんどは、江戸時代(薩摩藩政時代)頃に土着の信仰から移行し設立された比較的新しいものである。奄美大島を含む奄美群島は、沖縄県と同様に琉球文化圏と呼ばれるものを構成する部分もある。奄美方言は琉球方言の一部でもあり、基本的語彙や表現など沖縄方言との共通点も多い。一方で奄美群島、とりわけ奄美大島の文化は沖縄県よりも九州以北に近い部分も少なからず、中間的である。独自の文化を基層に、時代により九州以北や沖縄本島以南、また中国大陸や東南アジア方面などの影響も受けてきた。島を代表する生産品である黒砂糖や大島紬は中国大陸方面から伝えられ、焼酎(黒糖焼酎)やチヂン(奄美大島独自の太鼓)、高倉は東南アジア方面から伝えられたとも言われる。1185年の壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びてきた平家たちにより、重要無形民俗文化財の諸鈍芝居(諸鈍シバヤ)が伝えられ、幾つかの城砦が築かれたとの伝承も残る。
 @奄美空港(あまみくうこう Amami Airport)は、鹿児島県奄美市(奄美大島)笠利町和野にある地方管理空港である。奄美大島北東部の、奄美群島国定公園内の沿岸海域を埋め立てて造成された。1964年の供用開始時は現在の南方約2kmの陸上に位置していたが、滑走路延長の用地確保が進まず、現在位置に新空港を建設し、1988年から供用されている。
 @Q400のQ(quiet/静粛性)が意味する低騒音とジェット機に匹敵するスピード・快適性を兼ね備えた飛行機です。静かに優しく、JACの新世代高速ターボプロップ機Q400が楽しい空を演出します。1996年以降のものについては騒音・振動抑制装置が装備された低騒音型として、Q シリーズ (Q Series) という名称に再び変更され現在に至っている。総生産機数は800機以上である。日本の航空会社では、-100/-200がコミューター路線の大型化により1990年代後半から、またQ300/Q400がYS-11の後継機として2003年より地方路線を中心に運用されている。
@奄美空港内のお店はJoyfulですが、奄美大島の鶏飯がメニューにあります。1080円。
@ビールを飲んでいますが帰りです。その後にパフェとアイスコーヒーも飲みました。
A宇宿漁港。
B土盛海岸。奥尻島のモッ立岩に似ていますね(笑)
 Cあやまる岬:あやまるの名の由来は奄美の乙女達は、正月になると赤・青・黄の色とりどりの糸で刺繍したきれいな手鞠で手鞠歌を唄いながら鞠つきをします。この岬の一帯のなだらかな地形が「アヤに織られた手鞠」によく似ていることから、いつ頃からか「アヤマル」と呼ばれるようになり、地名になったのだと伝えられています。
Cいもーれ ネリヤの国 AMAMI あやまる岬から見た風景。
C笠利町立歴史民俗資料館。珊瑚の石垣です。
D用海岸です。
D椰子ガニですかね?触ると動きませんが、プラ容器に乗せると動き出して逃げて行きました。
E笠利崎の夢をかなえる「カメ」さん。
E笠利埼灯台まで5分です。
E途中に小さな瀧があります。こんな所にも水が流れているのですね。
E途中の上り坂はかなりきつかったですね。
E笠利埼灯台からの風景です。
 E笠利埼灯台:この灯台は奄美群島最北端に位置し奄美大島北部沖合及び喜界島間の海峡を航行する貨物船や定期フェリー・小型漁船などの船舶が、灯台の明かりを見ることによって自分の船がどの付近を航行しているか位置を確認するための指標となっている重要な航路標識です。地元では「用岬の灯台」と呼ばれ親しまれています。
F笠利湾の風景です。
G用安海岸。砂浜が白くて綺麗ですね。
H奄美大島の龍郷町赤尾木地区の無線塔(送信塔)奄美大島の戦跡。
H奄美大島の龍郷町赤尾木地区の無線塔(送信塔)内部。内部にはタラップが付いています。
H奄美大島の龍郷町赤尾木地区の無線塔(受信塔)
 H奄美大島の龍郷町赤尾木地区の無線塔。昭和13年に建造された「赤尾木送受信所の無線塔」です。当時10基あったコンクリート製の無線塔ですが、現在3基残っています。太平洋戦争中は、空爆目標にされ、度重なる攻撃を受けたようです。
I国道58号線の屋入トンネル。
 J奄美大島酒造(株)の創業は昭和45年。昭和57年に大島紬発祥の地であり、奄美大島で一番水がおいしいといわれる龍郷町に移転した。その際に仕込タンクや蒸留機、貯蔵タンクの全てをステンレス製に変えて衛生的に管理し二年以下の製品は出荷しないという基本方針でまろやかさを自然に生み出し糖分ゼロ無添加の高級蒸留酒として広くご愛飲いただいております。
J九州電力竜郷発電所。離島は基本的に内燃発電所です。
K県道81号線の安木屋場トンネル。
 Lかがんばなトンネル:円集落の県道にある『かがんばなトンネル』は、全長29メートルという非常に短いトンネルで平成10年4月に完成しました。春分の日の前と秋分の日の後の数日間、トンネルに夕日がすっぽりと入ることが判明し、今では本町の観光名所の一つとして数えられています。『かがんばな』とは、地名の「鏡崎(かがみざき)」がなまり、「かがんざき」になり、海に突き出した陸地を「はな」と呼ぶことから、『かがんばな』とつけられました。夕日の写真は龍郷町のHPより。
Lかがんばなトンネル。
M県道81号線の秋名トンネル。
N県道81号線の芦花部トンネル。
O県道81号線の和光トンネル。
 P名瀬港は、鹿児島県奄美市(旧名瀬市)にある港湾。奄美大島の北西部にあり、港口は北側を東シナ海に対して開いていて、他の三方は陸地に囲まれており天然の良港としての形状を有している。また、鹿児島港と那覇港のほぼ中間(鹿児島港から383km 、那覇港から331km)に位置する。その位置から九州から沖縄の間の海域における避難港としての機能を有しており、港湾法上の重要港湾に指定されているほか、港則法上の特定港にも指定されている。奄美大島における物流および観光の拠点となっている。
P海上保安庁のあまぎ。 P海上保安庁のかいもん。
 P奄美博物館:奄美は、古くから日本本土と中国、東南アジアとの接点にあり、独特の文化圏を形成してきました。小さな島嶼地域でありながら、その歴史は琉球に属したり、薩摩藩に組み入れられたり、アメリカ軍政下におかれるなどきわめて変化に富んだ歴史を有しています。特に言語・風俗・信仰等は、日本の古代文化との深いつながりを保持しているのではないかといわれ、学問的にも貴重な地域として注目されています。また、自然科学の分野においても貴重な野生生物が多く、南限種・北限種・固有種が非常に多い地域として注目されており、世界自然遺産登録を目指しております。
 P奄美の民家:奄美の民家は、「オモテ(主家、座敷)」と「トーグラ(台所、居間)」の二棟、あるいは「ナカエ(ヤ)」を入れた三棟を主体に構成される。「オモテ」と「トーグラ」は「トイマ、カヨイ」等と呼ばれる渡り廊下でつながれ、屋根の間に木をくり抜いた樋を吊して雨に濡れないようにしている。
Q県道79号線の根瀬部トンネル。
R県道79号線の国直から思勝湾の風景を見る。
S県道79号線の尾神山トンネル。
@ウツ崎の大山崎灯台からの風景。
A県道79号線の名音トンネル。全長386m(298m)名音洞門。
A県道79号線の長瀬トンネル。
A県道79号線の志戸勘トンネル。
B県道79号線の生勝トンネル。
B県道79号線の伊仁トンネル。
B県道79号線の芦検トンネル。
C県道79号線と曽津高崎方面(宇倹中央線)との分岐点。
 Cかんつめの碑:薩摩藩政時代、奄美大島の焼内間切(現宇検村)須古に「かんつめ」という18歳あまりの美しい娘がいた。しかし実家の貧しさゆえ、彼女は隣村名柄の豪農のもとへヤンチュ(家人・奄美独特の債務奴隷)として身売りされた。働き者で美しいかんつめに目をつけた主人は、彼女を妾にしようとたくらむ。一方、久慈(現瀬戸内町)の役所に、岩加那(いわかな)という三線の上手い筆子(てっこ)(書記)がいた。ある日、公用で豪農の元を訪れた岩加那は宴の席で、偶然にかんつめと出会い、歌の上手い彼女と三線の掛け合いをするうち恋に落ちる。2人は夜な夜な名柄と久慈の間の佐念山で、逢引をしていた。一方、2人の関係を知って激怒した主人により、彼女は虐待された(強姦されたとも、嫉妬した豪農主人の妻から陰部に焼火箸を当てられたともいわれる)。世を儚んだかんつめは逢引をしていた佐念山で首を吊って自殺した。かんつめの死後、豪農主人の家では親族がハブに咬まれたり、変死が相次ぐなどし没落したといわれる。
D宇倹中央線の鳥帽子岳方面と林道管鈍線方面との分岐点。
Eここから県道627号線と林道宇倹中央2号線との分岐点。
 E県道627号線から西古見灯台との分岐点。この先に戦跡があるのだが、砂利道なのと時間が無かったので諦めました。
 F観測所跡:この観測所(壕)は、旧日本陸軍により昭和15年に建設され、正式には「掩蘆(式)観測所」と呼ばれた。射撃目標の方向と距離を測定し、山陰に設置された砲台に連絡する役割を担い、壕内部の中央台座には監視用の望遠鏡が設置されていた。平成16年5月に整備されるまでは、草木に覆われ外部からは全く見えないように造られていた。また、中のコンクリート壁には海上の岩や島々の図が描かれ、距離などが細かく記されている。
F観測所のコンクリートには鉄筋が入っていた。
F観測所からの風景。左写真の岩は三連立神。
G西古見付近の海岸線の風景。
G西古見付近の海岸と珊瑚の石垣。
H久慈湾の風景。
I徳之島の亀徳湾改修工事用のケーソンを造っているみたいですね。
J県道79号線の油井トンネル。
K現在工事中の久根津トンネル。 K奄美瀬戸崎燈台。
L古仁屋港のせとうち海の駅。
 L奄美大島要塞司令部跡:鹿児島県立古仁屋高等学校の校門脇には奄美大島要塞司令部跡の石碑が建っている。碑文は大正9年(1920年)古仁屋に陸軍築城本部奄美大島支部が開設され、直ちに大島海峡東口(皆津崎・安脚場)、同西口(西古見・実久)四地点に砲台陣地構築と共に要塞指令部施設工事が着工。後に「太平洋上の防衛制限条約」(ワシントン)が締結され工事は中止のやむなきに至った。大正12年(1923年)砲台工事は未完のまま奄美大島要塞指令部は、現在地に開庁された。以来、要塞司令官以下各砲台監視員・所要兵科要員が常駐した。この時同時開設された父島、膨湖島要塞と共に、日本三大要塞として国防第一線を担った。以来要塞地帯法・軍紀保護法等の施工により一般の住民の日常生活にも制約を受けるに至った。昭和16年(1941年)大東亜戦争勃発、大島海峡は南進基地と化し、艦船や戦闘機の発着が激化、海峡両岸各地には三軍の防備部隊が駐屯、沖縄作戦と共に敵機は要塞指令部を目標として間断なく来襲、同指令部も遂に古仁屋市街地と共に被爆、周囲の塀に無数の弾痕を残して終戦となった。
M国道58号線の地蔵トンネル。
N国道58号線の石釜トンネル。
O国道58号線の城トンネル。
O国道58号線の小和瀬トンネル。
P国道58号線の新和瀬トンネル。
Q国道58号線の朝戸トンネル。
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きょらの郷 奄美大島