更新日時 2021年03月07日

炭鉱で栄えた島 高島
 高島は、九州北西部の長崎半島西沖合にある島。全島が長崎県長崎市(2005年1月3日までは西彼杵郡高島町)に属する。島は古第三紀高島層からなり、最高峰の権現山(114m)が島中央部のやや北方にある。全体にケスタ地形をなし、北側海岸は急な崖となっている。もとは高島本島と属島の上二子島・下二子島・飛島があったが、上下二子島と本島は炭鉱からのボタで埋め立てられ陸続きとなり、そこに高層アパートが林立した。また、飛島も防波堤により陸続きとなっている。気候は温暖多雨であるが水資源を確保することができないため、対岸の三和地区から海底送水管で送水している。1695年(元禄8年)には肥前国松浦郡江迎の五平太が島内で石炭を発見、伊万里・波佐見における製陶用燃料として用いられた。高島炭鉱が明治時代初期に英国商人トーマス・グラバーらによって本格的な近代炭鉱として開発された。1965年(昭和40年)ごろには従業員約3,000人、年間出炭量約127万tに達したがその後漸減、1985年(昭和60年)頃には年間出炭量約65万tに低落した。同年の坑内事故、生産調整等により1986年(昭和61年)11月27日をもって高島炭鉱は閉山された。閉山後は磯釣り公園の整備等を行い観光開発を模索しているほか、トマトのハウス栽培が盛んになっている。
@高島全景空撮。
A高島の飛島。
A高島の飛島から見る漁港。
B高島から飛島を見る。
B高島海水浴場。
C高島の廃墟アパート。
D高島の一番標高が高い場所(権現山)
E高島の権現山。
E高島の現役アパートとトマトのハウス栽培。
F高島の現役アパートとトマトのハウス栽培。
G高島の現役アパート。
H高島の炭鉱跡(上二子島)
I高島のボタ山跡。
H高島の軍艦島が見える丘(下二子島)
長崎港と高島を結ぶフェリー。
@軍艦島が見える丘から軍艦島を見る。
@軍艦島が見える丘から当時のボタ山。 高島のマンホール。
@軍艦島が見える丘からからの風景。
@下二子島の下に穴が見える。斜坑か?
A煉瓦の瓦礫が残っていた。煉瓦の刻印は確認出来なかった。
A煉瓦の瓦礫が残っていた。文字が書かれているのは耐火煉瓦。
B高島の二子竪坑跡。
B高島の二子竪坑跡。
B高島の二子竪坑は昭和40年(1965年)に開坑(深さ965m)し東洋一の深さの竪坑。
C高島浄化センター。
D高島炭鉱には軌間610mmのトロッコ軌道が敷かれていました。
E火葬場跡か?
F高島基地前のバス停跡にブルドーザーの残骸が残る。
F高島町の消防署とバンクシー風落書き。
G高島の郵便局とスーパー高島。
H炭鉱博物館。 H軍艦島(端島)の模型。
H炭鉱で使われていたバッテリーロコ。
H炭鉱で使われていた鉱車や人車。
H炭鉱博物館の展示品。
H炭鉱博物館の展示品。
H炭鉱博物館の展示品。
H炭鉱博物館の展示品。こんにゃく煉瓦。
H炭鉱博物館の展示品。
H炭鉱博物館の展示品。
H炭鉱博物館の展示品。
H炭鉱博物館の展示品。
H炭鉱博物館の展示品。
I高島のフェリーターミナル。
I高島のフェリーターミナル。
J岩崎彌太郎の像。 J高島いやしの湯。
K百間崎防波堤。炭鉱開発のために防波堤を築き百間位有るからこの地名を百間崎と名付けた。
Lコンニャク煉瓦の擁壁。明治20年頃百間崎坑開発のための道路擁壁。
M海水浴場とキャンプ場。
N有料の釣り場。
N有料の釣り場。
O高島町種苗生産センター。
P高島炭鉱高島北渓井坑跡の当時の写真。
P高島炭鉱高島北渓井坑跡。
P高島炭鉱高島北渓井坑跡。
P高島炭鉱高島北渓井坑跡の当時の写真。
P高島炭鉱高島北渓井坑跡。
P高島炭鉱高島北渓井坑跡。ボイラー施設跡。
Q人道橋。 Q船用のトロッコ軌道。
Rグラバー邸跡。
Rグラバー邸跡。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『長崎市高島町』を掲載」