更新日時 2015年08月24日

 上田交通真田傍陽線 は、長野県上田市の上田駅と真田町(現・上田市)の傍陽駅、真田駅を結んでいた上田交通の鉄道路線。1927年に開通し、1972年(昭和47年)に廃止された。信越本線(現しなの鉄道線)上田駅を起点とし、市街地を時計回りの方向で進み、市街地の北東部にあった川原柳駅から国道144号線に沿う形で本原駅に達し、さらにそこから分岐して現在の長野県道35号線に沿って傍陽駅までを、さらに国道144号線に沿って真田駅を結んでいた。真田傍陽線は上田温泉電軌(温電)によって、同社の北東線として1927年(昭和2年)に開業し、1928年(昭和3年)に全通した。当初温電は経営難という事情から、上田市から北東の方面に鉄道を建設することに難色を示していたが、上田市と北東5ヶ村(神科村・殿城村・本原村・長村・傍陽村、いずれも現上田市)が鉄道敷設運動を起こし強く働きかけたため、それに押される形で建設を決断した。敷設に積極的ではなかった真田傍陽線だが、この開通により菅平の観光開発が進み、結果的にその敷設は有意義なものであった。真田傍陽線は菅平高原や群馬県への交通手段として、さらに上田市と真田町で収穫された高原野菜、リンゴなどの農産物を輸送するための路線としても盛んに利用されたが、上田駅から直接菅平高原、群馬県へ行くバスが増発されたり、農産物の輸送がトラックに移行したため1960年代後半から赤字路線に転落。1972年(昭和47年)2月20日に廃止となった。
上田交通真田傍陽線(廃線)
上田駅 - 公園前駅 - 北大手駅 - 上田花園駅 - 北上田駅 - 川原柳駅 - 神科駅 - 樋之沢駅 - 伊勢山駅 - 殿城口駅 - 下原下駅 - 本原駅 - 北本原駅 - 石駅舟 - 長村駅 - 真田駅
支線:本原駅 - 横尾駅 - 曲尾駅 - 傍陽駅
 @上田駅(うえだえき)は、長野県上田市天神一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本・しなの鉄道・上田電鉄の駅である。JR東日本の北陸新幹線、しなの鉄道のしなの鉄道線、上田電鉄の別所線の3路線が乗り入れている。そのうち別所線は当駅が起点となっている。1927年(昭和2年)11月20日に、現在の上田駅の高架下、ドトールコーヒーとモスバーガーが出店している付近に通称「北東上田駅」が設置されていた。完成時には丸屋根の車庫を備え、2面のうち1面を留置専用、もう1面を乗降車用としたホームを持っていた。さらにホームの先には留置線が配置され、電車区と貨物駅を兼ねた構造だった。信越本線と「川西上田駅」との連絡は、東京方面が降車後そのまま歩いて連絡、長野・松本・直江津・別所温泉・青木・西丸子方面は連絡橋を渡る仕組みになっていて、便利であった。1953年に上田丸子電鉄の本社ビルが完成すると、本社側にもホームが完成し2面2線となり、1955年8月には「電鉄上田駅」としてリニューアル。別所線・西丸子線の切符も販売し改札も独自のものを使うようになった。また本社前には東急バスの渋谷駅行き特急バスが停車し、結構にぎわっていたという。駅の廃止後は広い構内に東急インが建設され、線路敷は駅レンタカーの営業所に転用されたが、新幹線の上田駅が建設されて現在の形となった。
 @上田駅構造は地上1階にJR東日本新幹線の出改札があり、地上2階の南北自由通路を兼ねた橋上駅舎にしなの鉄道と上田電鉄の出改札がある。市街地側の北口は「お城口」、別所温泉側の南口は「温泉口」と呼ばれる。「お城口」は蔵をイメージしたデザインとなっており、夜には上田市ゆかりの真田家の家紋「六文銭」が間接照明で照らされる。お城口下部の黒いなまこ壁はは当初モルタル仕上げとする予定であったが、市民から1億5000万円の寄付金が集まり黒御影石を貼り合わせたものとなった。
A上田交通真田傍陽線の上田駅 - 公園前駅間の廃線跡。信越本線とここで分岐。
B上田交通真田傍陽線の上田駅 - 公園前駅間の廃線跡。
C上田交通真田傍陽線の上田駅 - 公園前駅間の廃線跡。
D上田交通真田傍陽線の上田駅 - 公園前駅間の廃線跡。架線柱の基礎が残る。
 E公園前駅(こうえんまええき)は、長野県上田市にあった上田交通真田傍陽線の駅。1927年に開業し、1972年に廃止された。
 E上田温泉電気軌道(上田交通の前身企業のひとつ)は、上田市と小県郡東北五ヶ村(神科村、豊里村、本原村、傍陽村、長村。いずれも現在は上田市)の要請に負けて上田市と東北五ヶ村を結ぶ路線を建設することとなったが、鉄道省線(のち国鉄、現JR東日本)は上田市内に路線を敷くにあたり、上田駅から東回りにするか、北回りにするかで迷っていた。上田市北西部の住民が北回りを主張したために北回り起点で工事を開始した。予定されていたルート上には上田城の城跡の二の丸堀があり工事が難航するかと思われていたが、同じ時期に上田城址公園の整備事業が執り行われ、二の丸堀を崩して路盤に充てる工事も執り行っていた。おかげで難航することなく二の丸堀に線路が敷かれ、1927年11月20日に第一期路線上田 - 伊勢山間が開業となったのである。公園前駅は開業当時上田市公会堂(入母屋作りの木造の公民館。1960年に解体され、3年後の1963年に鉄筋コンクリート作りの上田市民会館となる)の真下にあったので公会堂下駅(こうかいどうしたえき)と称していたが、1948年に公園前駅と改称している。上田中学校→上田松尾高等学校→上田高等学校の最寄駅であったが、東北地方の生徒はいわゆる当時の仲間意識から、川原柳駅若しくは北上田駅で下車して各駅から徒歩通学していたため利用せず、また川西地方の生徒も上田駅で下車してそこから歩いて通学していたため、通年での利用客は少なかった。しかし高校野球の長野県予選が上田を主会場で行われたり、上田城址公園の桜が見頃になると利用する客が多かったという。駅は上田城址二の丸堀跡に掛かる二の丸橋の下にあった。待合室付きの単式ホームがある無人駅で、乗車する際は車掌が乗車券を発行していた。1972年2月19日の路線廃止と同時に廃駅となったが、跡地は「けやき並木遊歩道」として整備されて市民の憩いの場所となっており、また真田傍陽線のホームなどの遺構が残る場所として、鉄道ファンにも親しまれている。
E上田交通真田傍陽線の公園前駅 - 北大手駅間の廃線跡。架線の碍子が残る。
F上田交通真田傍陽線の公園前駅 - 北大手駅間の廃線跡。けやき並木遊歩道に転用。
 G上田花園駅(うえだはなぞのえき)は、1927年11月20日から1972年2月19日まで設置されていた上田交通真田傍陽線の駅。真田傍陽線の廃線と同時に廃駅となった。上田市市街地の北西部は、明治時代に「新地」と呼ばれた遊郭地帯として開け、真田傍陽線の前身である上田温泉電気軌道北東線が開業した昭和時代初期においても、田んぼの中に開けた遊郭地帯として知られていた。そこへ行く道の出発地点の脇に設置されたのがこの駅である。地図では単に「はなぞの」「花園駅」となっている。駅は国道18号線の踏切から右方向にカーブした所にあり、ホームはカーブに沿って右に湾曲していた。待合室があるだけの無人駅であった。
H上田交通真田傍陽線の上田花園駅 - 北上田駅間の廃線跡。
I上田交通真田傍陽線の上田花園駅 - 北上田駅間の廃線跡。
 J北上田駅(きたうえだえき)は、1927年11月20日から1972年2月19日まで設置されていた上田交通真田傍陽線の駅。真田傍陽線の廃線と同時に廃駅となった。北上田駅は次駅の川原柳駅と同様、上田市の神科地区・小県郡真田町(現在は上田市真田町地区)の乗客にとって上田市街地の玄関口であり、両地区の乗客は川原柳駅かこの駅で降りて市街地まで歩いていく人が多かったそうである。駅舎は開業時から三角屋根のモダンな作りであり、戦後に正面玄関口が改築されてホームが増築されている。駅は貨物側線を持つ1面式のホームで、山口地区で取れたりんごがこの駅を介して上田駅へ運ばれ、国鉄の貨物(現:JR貨物)を介して日本全国に輸送されたが、トラックによる輸送が主体となると貨物駅としては使用されなくなっていた。駅の廃止後は、敷地が上田交通の月額駐車場として利用され今に至っている。また、同駅は廃止後に上田交通→上電バスの停留所となったが、代替バス路線ではなく上田市内線のバス停である。
K上田交通真田傍陽線の北上田駅 - 川原柳駅間の廃線跡。
L上田交通真田傍陽線の北上田駅 - 川原柳駅間の廃線跡。
 M川原柳駅(かわらやぎえき)は、1927年11月20日から1972年2月19日まで設置されていた上田交通真田傍陽線の駅。真田傍陽線の廃線と同時に廃駅となった。駅は市街地に設けられた駅で唯一交換設備を持ち、2面2線のホームとハイヤーの事務所を兼ねた駅舎(事務所部分は戦後増築した)を持ち、一番にぎわっていた駅の名にふさわしい作りとなっていた。駅は国道144号線と平行していたが、1967年に同線のバイパス(現在は本線)が完成すると駅の目前を自動車が通るようになってしまい、これが真田傍陽線廃止の決定打になってしまった。駅の廃止後は上田交通→上電バスのバス停留所となったが、停留所は旧144号線入り口に設置されている。また、18号線と144号線との交差点付近に「上川原柳停留所」が、現在の144号線入り口に「下川原柳停留所」が設置されており、後者が駅跡前に設置されている。
N上田交通真田傍陽線の川原柳駅 - 神科駅間の廃線跡。橋台が残る。
O上田交通真田傍陽線の川原柳駅 - 神科駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。
P上田交通真田傍陽線の川原柳駅 - 神科駅間の廃線跡。廃線跡は道路から左へ。
Q上田交通真田傍陽線の川原柳駅 - 神科駅間の廃線跡。
 R神科駅(かみしなえき)は、1927年11月20日から1972年2月19日まで設置されていた上田交通真田傍陽線の駅。真田傍陽線の廃線と同時に廃駅となった。上田交通真田傍陽線は、川原柳駅から一部の地域を除き真田駅まで国道144号線、別名上州街道と並行して走っていたが、川原柳駅から当駅までは国道144号線とほとんど寄り添う形で走っていた。神科駅は寄り添う区間の終点地点に設置された駅である。真田傍陽線が前身の上田温泉電気軌道によって北東線として開業した時点では、川原柳駅を過ぎると小県郡神科村に突入し伊勢山駅まで村内を走っていたが当駅は大字神科地区、村の中で住宅が密集していた地区の西部付近に設置されていた。駅は上州街道と隣り合っていて、駅を降りればすぐ道路という位置にあった。そのような立地条件下にあったため、単線ホーム1面1線の駅でありながら駅舎を備え駅員も配置されており、朝夕の乗降客の多い駅であった。駅舎は北上田駅・傍陽駅と同じ造りであるが、出入口が違っている。廃線となった現在、若干面影が消えたものの、駅跡となって残っている。駅の廃止後は上田交通→上電バスのバス停留所となったが、真田傍陽線の代替線ではなく豊殿線の停留所である。
S上田交通真田傍陽線の神科駅 - 樋之沢駅間の廃線跡。
@上田交通真田傍陽線の神科駅 - 樋之沢駅間の廃線跡。
 A樋之沢駅(ひのさわえき)は、1927年11月20日から1972年2月19日まで設置されていた上田交通真田傍陽線の駅。真田傍陽線の廃止と同時に廃駅となった。小県郡神科村大字樋之沢地区に設置されたため、この駅名となった。2面2線の相対式ホームを持つ交換駅であったが、真田傍陽線の開業時は唯一の交換可能駅であった。駅は田んぼの中にあったが、配置された駅員が駅舎で切符を販売した。豊里村(のちに豊殿村、現在は上田市)の住民が上田市市街地へ通勤するのに利用していて、乗降客は多かった。2006年現在、駅跡には草木が生い茂るもののホーム跡が現存している。駅の廃止後は、上田交通→上電バスのバス停留所となっている。
B上田交通真田傍陽線の樋之沢駅 - 伊勢山駅間の廃線跡。
C上田交通真田傍陽線の樋之沢駅 - 伊勢山駅間の廃線跡。
D上田交通真田傍陽線の樋之沢駅 - 伊勢山駅間の廃線跡。
E上田交通真田傍陽線の樋之沢駅 - 伊勢山駅間の廃線跡。
F上田交通真田傍陽線の樋之沢駅 - 伊勢山駅間の廃線跡。
 G伊勢山駅(いせやまえき)は、1927年11月20日から1972年2月19日まで設置されていた上田交通真田傍陽線の駅。真田傍陽線の廃線と同時に廃駅となった。この駅は真田傍陽線の前身である上田温泉電気軌道北東線が開業した際の終着駅であった。ここが終点になったのは、真田傍陽線建設のきっかけとなった上田市外小県郡東北五ヶ村(神科村、殿城村、本原村、傍陽村、長村。いずれも現在は上田市)による鉄道敷設運動から殿城村が脱落したという事情からである。真田傍陽線は当初、樋之沢駅から上野山(通称伊勢山)を避けて殿城村を通り、殿城村から下原下駅へ通るというルートで第一期線の終点として計画されていた本原駅まで建設する予定であったが、殿城村が「金額が集まらないので負担金を払えない」との理由から脱落。結果、神川鉄橋を予定より上流の上野山付近に建設し、鉄橋の上野山入り口にはトンネルを掘るという難工事ルートに変更された。真田傍陽線の第一期分の開業予定日は1927年11月20日、恵比寿講の日の開業を予定していたが、この時点では当駅までしか完成していなかったため、暫定的に当駅を終点としてようやく開業にこぎつけた。その後、難工事であった伊勢山トンネルと神川鉄橋は年内に完成している。駅は小県郡神科村大字伊勢山(現在は上田市伊勢山)地区の脇に設置された。単式ホーム1面と小さな待合室があるだけの無人駅で、本原・真田・傍陽方面を出てすぐに伊勢山トンネルに突入するという位置にあった。駅の廃止後は上田交通→上電バスのバス停留所となったが、停留所は神川を渡る道路橋川久保橋の近くにある。また、駅跡は伊勢山トンネル跡がポイントとなっているが、敷地一杯にアパートが立ち並んでいて往時の面影は見られない。
 H上田交通真田傍陽線の伊勢山駅 - 殿城口駅間の廃線跡。真田傍陽線の敷設工事の中で、特に難工事といわれたのが伊勢山トンネルの建設であった。伊勢山トンネルは上野山を貫くトンネルで、当駅を出てすぐにトンネルに突入し、そこを出ると神川鉄橋(通称川久保鉄橋)に出るという作りであった。廃線後は単線トンネルであったため道路用として転用されることもなく、当初はそのままであったが、近所の農家が「何かに利用できないか」ということで上田交通と協議した結果、菌類の栽培に適しているということで、現在はブナシメジの栽培場として再利用されている。
I上田交通真田傍陽線の伊勢山駅 - 殿城口駅間の廃線跡。伊勢山トンネル。
I上田交通真田傍陽線の伊勢山駅 - 殿城口駅間の廃線跡。
 J殿城口駅(とのしろぐちえき)は、1928年1月10日から1972年2月19日まで設置されていた上田交通真田傍陽線の駅で、1953年までの駅名は川久保駅(かわくぼえき)。真田傍陽線の廃線と同時に廃駅となった。伊勢山駅の記事でも触れているが、真田傍陽線の前身である上田温泉電気軌道北東線の第一期線の上田駅〜本原駅間は、きっかけとなった鉄道敷設運動の経緯から、当初路線は殿城村を回るルートで計画され、神川鉄橋も現在の国道144号線川久保橋より下流の殿城村付近に建設される予定であったが、建設負担金が集まらないとの理由から殿城村が脱落したため、現在の川久保橋付近に鉄橋が建設され、同時に伊勢山トンネルも建設されるルートに変更された。ルート変更によって設けられた駅が殿城口駅である。駅は神川鉄橋を渡ってすぐの場所に建設された。駅は設置時川久保橋の近くにあり、設置された場所の住所が小県郡本原村大字下原小字川久保(現在は上田市真田町下原)であったため川久保駅(かわくぼえき)と称していたが、脱落した殿城村の住民が歩いて利用していたという事情からか、1953年に殿城口駅(とのしろぐちえき)に変更している。駅は単式ホーム1面だが、駅舎を持ち駅員が配置され、駅員が切符を販売する駅であった。廃止後は上田交通→上電バスのバス停留所となったが、停留所は川久保橋の近くにある。
 K下原下駅(しもはらしたえき)は、1928年1月10日から1972年2月19日まで設置されていた上田交通真田傍陽線の駅。真田傍陽線の廃線と同時に廃駅となった。殿城口駅から本原駅までは北方面にまっすぐ線路が伸びていたが、当駅はその区間の中間地点である小県郡本原村大字下原(のち真田町、現在は上田市真田町下原)地区に設置された。駅名は下原地区の南部であったからという説があるが、詳しくは不明である。駅舎を有する単式ホーム1面を持つ駅員配置駅で、駅員が切符を販売していた。朝夕の混雑が激しい駅であった。真田傍陽線廃止後は、前駅の殿城口駅の途中から真田駅のあった場所までが国道144号線のバイパス(現在は本線)となり、当駅も跡地がバイパスとして利用されている。駅は廃止後に上田交通→上電バスのバス停留所となったが、「下原停留所」と名称変更されている。
 L本原駅(もとはらえき)は、1928年1月10日から1972年2月19日まで設置されていた上田交通真田傍陽線の駅である。真田駅方面に行く本線と傍陽駅方面へ行く支線の分岐駅で、真田傍陽線の廃線と同時に廃駅となった。廃止時点で、駅は2面2線の相対式ホームで交換設備を持っていた。真田・傍陽方面には三本の線路があり、一番左に留置線、中央は傍陽方面へ行く線路、一番右に真田方面へ行く線路があり、傍陽方面の線路と真田方面の線路は駅に入る直前で合流していた。初代の駅は留置線付近にあり、開業時にはここに設けられたホームから電車が発着していた。開業時にはすでに第二期の工事が始まっており、初代の駅から少し下ったところに信号場を設け、ここを介して列車交換が行われていたが、1928年4月2日に傍陽駅まで開通する(真田駅まで開通したのは同年5月1日)と下ったところにホーム・駅舎が作られた。初代の駅は留置線となり、区間運転の電車の待機用に使われるようになった。1940年頃には青木線で使用されていた路面電車の廃車体が留置線の隣に置かれ、1960年以降はブリキのスレート板で覆って放置されていた。本原駅には駅員が配置され、廃止まで駅員が切符を販売していた。駅の廃止後は上田交通(後の上電バス)の停留所となる。最初は並行する国道144号(かつての本線。現在は真田町道を経て上田市道)に設置されたが、1984年にかつての線路に同線のバイパス(現在は本線)が完成するとそこに移転し、現在に至っている。
 M北本原駅(きたもとはらえき)は、1928年5月1日から1972年2月19日まで設置されていた上田交通真田傍陽線の駅。真田傍陽線の廃線とともに廃駅となった。真田傍陽線の前身である上田温泉電気軌道北東線の第二期線として、予定されていた本原駅 - 真田駅 - 大日向駅(実現せず)間の通称・真田線が1928年5月1日に開通したが、その真田線の最初の駅として設置されたのが当駅である。当駅は本原駅の北にあるため、北本原駅という駅名になったと思われるが、設置された場所は小県郡本原村大字荒井(のち真田町大字荒井、現在は上田市真田町荒井)であったため、地元では荒井駅と呼ばれていたという。駅は貨物の積み出しも多かったため、駅舎が大きめに作られていてホームも長めに作られていた。二面二線のホームで交換もできたが、晩年は上下分離は継続されていたものの交換駅として利用されてはいなかった。駅員が配置されており、駅員による切符販売が廃止まで行われた。
 M北本原駅の廃止後は上田交通→上電バスのバス停留所となり、国道144号が現在の上田市道を通っていた頃は名称を継承していたが、バイパスが本線となった後、「真田役場入口」→「真田自治センター入口」と停留所名が変更されている。また駅前には駅前食堂があったが、この「駅前食堂」は真田傍陽線の廃止後も営業を続け、線路跡が国道144号(開通当時はバイパス、現在は本線)となった2012年現在も健在であり、この駅前食堂が駅跡を示すポイントとなっている。
N上田交通真田傍陽線の北本原駅 - 石駅舟間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。
 O石舟駅(いしふねえき)は、1928年5月1日から1972年2月19日まで小県郡真田町(現:上田市)にあった上田交通真田傍陽線の駅である。真田傍陽線廃線と同時に廃駅になった。真田町(現:上田市)の旧長村地区最初の駅である。設置された場所が小県郡長村大字石舟(現:上田市真田町石舟)であったため、この駅名となった。石舟地区の中心から外れた田園地帯の中にあった駅で乗降客は少なく、単式ホーム1面と待合室があるだけの無人駅であった。駅の廃止後は、上田交通→上電バスのバス停留所となった。
P上田交通真田傍陽線の石駅舟 - 長村駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。
 Q長村駅(おさむらえき)は、1928年5月1日から1972年2月19日まで設置されていた上田交通真田傍陽線の駅。真田傍陽線の廃線と同時に廃駅となった。この駅は小県郡長村(のちに傍陽村・本原村と合併して真田町、現在は上田市)からさらに先の大日向駅への延伸を見越して、駅員配置駅・交換可能駅として開業した。当初は駅舎を持ち駅員も配置されていたが、上田駅方面の上りホームが貨物側線となり、行違い設備は廃止。さらに駅員が合理化により無配置になり、上田交通になってから駅舎が解体された。次駅が終点の真田駅であり、また大日向駅への延伸計画も実現しなかったことから、行違い設備を維持する必要がなくなったためと思われる。駅の廃止後は上田交通→上電バスのバス停留所となったが、停留所名は「長小学校前停留所」と変更されている。
 R真田駅(さなだえき)は、1928年5月1日から1972年2月19日まで設置されていた上田交通真田傍陽線の終着駅。廃線と同時に廃駅となった。
 R真田駅は長いホームをもった終着駅で、貨物側線を設けており、菅平高原で栽培されたキャベツ・レタスといった高原野菜が貨車に積まれて上田駅まで運ばれ、そこから東京・名古屋・大阪方面に輸送されていた。駅舎はバスターミナル機能を持った駅で、地味な作りながら広く、当駅から菅平高原行きの自社バス・群馬県長野原駅・鹿沢温泉行きの国鉄バスが発着していたが、丸子町駅とは違い最初からバスの大型化に対応したものであったため、後年まで改築されずに使用されたという。駅の廃止後はバスターミナルとして駅舎がそのまま利用されていたが、老朽化が進んだため、2003年頃解体された。現在は国道144号の本線の脇にあるホームの名残が、駅跡を示すポイントとなっている。駅廃止後は、上田交通→上電バスのバス停留所・停車所となっている。
@上田交通真田傍陽線の本原駅 - 横尾駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。
A上田交通真田傍陽線の本原駅 - 横尾駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。
 B横尾駅(よこおえき)は、1928年4月2日から1972年2月19日まで設置されていた上田交通真田傍陽線の駅。真田傍陽線の廃線と同時に廃駅となった。真田傍陽線は、上田交通の前身の上田温泉電気軌道によって北東線として開業したが、構想の段階では、本原駅から傍陽駅へ向かう通称・傍陽線は長野電鉄河東線(現・屋代線)の松代駅に接続する計画であり、こちらが本線として予定されていた。しかし、傍陽駅から先がトンネル工事という点で問題があったため断念、真田駅へ向かう通称・真田線が本線となり、傍陽線は支線に格下げとなった。その傍陽線の最初の駅が当駅である。本原駅から左側の線路を進み、神川第二鉄橋を渡って神川の支流の洗馬川沿いに進み、千古温泉の入り口道路を交差したところに位置していた。当駅は、小県郡真田町大字横尾(現在は上田市真田町横尾)にあったためこの駅名となったが、真田町となる以前は小県郡長村に属しており、傍陽線では唯一の長村村域の駅であった。最初は駅舎を持つ駅員配置駅として開業されたが、上田丸子電鉄になってから駅員無配置駅となった。駅の廃止後は上田交通→上電バスのバス停留所となった。停留所は長野県道35号線が真田町道(現在は上田市道)の位置にあった頃は駅跡近くに設置されたが、荒井バイパス(現在は本線)が完成すると神川の橋近くに移転している。上田交通の前身のひとつ、上田温泉電気軌道の社名の由来が別所温泉・沓掛温泉・田沢温泉の上田・小県川西地区3大温泉郷にあるのは有名だが、真田傍陽線の沿線にも温泉地が控えている。横尾駅の近くには古くから秘湯として有名な千古温泉があり、真田駅周辺には角間温泉、渋沢温泉がある。
C上田交通真田傍陽線の横尾駅 - 曲尾駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。
D上田交通真田傍陽線の横尾駅 - 曲尾駅間の廃線跡。
 E曲尾駅(まがりおえき)は、1928年4月2日から1972年2月19日まで設置されていた上田交通真田傍陽線の駅。真田傍陽線の廃線と同時に廃駅となった。真田傍陽線の支線・通称傍陽線は、神川第二鉄橋を過ぎると長野県道35号線と平行して走り、途中の小県郡真田町大字曲尾(開業当時は小県郡傍陽村大字曲尾、現在は上田市真田町曲尾)で左に大きくカープする。その曲尾地区に設置されたのが当駅である。傍陽村に入って最初の駅で集落の脇にあり、単式ホーム1面の無人駅ながら立派な待合室を持っていた。駅の廃止後は上田交通→上電バスのバス停留所となった。停留所は上田市道(かつての長野県道35号線本線)と荒井バイパス(現在の本線)との合流点より少し北西にあり、位置的には不変である。
F上田交通真田傍陽線の曲尾駅 - 傍陽駅間の廃線跡。
 G傍陽駅(そえひえき)は、1928年4月2日から1972年2月19日まで設置されていた上田交通真田傍陽線の支線、傍陽線の終着駅。廃線と同時に廃駅となった。当初の計画では本線として計画されていた真田傍陽線の支線・通称傍陽線は、前駅の曲尾駅を過ぎると神川の支流・洗馬川の鉄橋を渡り、終点である当駅に到着した。当駅は小県郡傍陽村(のち同郡真田町傍陽地区、現在は上田市真田町傍陽)の中心部に設置されていたが、本線の終点駅であった真田駅とは違い、大きな観光地は周辺にはなかったためか、上田駅 - 傍陽駅直通という便は少なく、上田駅から傍陽駅へ行くためには、分岐駅であった本原駅で乗り換えるというケースがほとんどだったといわれている。とはいえ、当駅も真田駅と同様、終着駅にふさわしく大きな駅舎を持ち合わせていた。駅舎はモダンな造りで、別所線の中塩田駅や別所温泉駅と似た造りの駅舎だった。別所線の各駅舎は戦後改築されたものだが、傍陽駅の駅舎は戦前からの建築であったものに1953年に改築が行われた。駅舎の隣に貨物用のホームを増設され、さらに電鉄ハイヤーの傍陽営業所の事務所・車庫が併設された。真田駅と同様、貨物の取扱いが多く、長いホームと貨物側線を保有していた。また、上田交通になった頃から地元の傍陽農協(現在はJA信州うえだ傍陽支所)の倉庫が当駅の隣に設置され、傍陽地区で取れた野菜が貨車に積まれて上田駅へ向い、そこから東京・大阪方面に輸送されていった。しかし、モータリゼーションの発達によりトラック輸送が主体となり、貨物施設の必要性は失われていった。駅の廃止後は、上田交通→上電バスのバス停車所・停留所となった。駅舎はバスの待合所に転用されたが、老朽化が著しく2003年に解体され駅舎跡は更地になり、停留所の場所も長野県道35号線沿いに移転した。しかし、駅の隣にあった農協倉庫は現在も健在であり、駅跡を示すポイントとなっている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『上田市』を掲載」
廃線探索 上田交通真田傍陽線