更新日時 2010年01月01日

廃線探索 沖縄県営鉄道与那原線
 沖縄県営鉄道(おきなわけんえいてつどう)とは、戦前に沖縄県が沖縄本島内で運営していた鉄道である。鉄道省側の書類には沖縄県営鉄道と記載されていたが、沖縄県側では1917年まで沖縄県軽便鉄道、それ以降は沖縄県鉄道を正式な名称としていた。また、762mmの軌間を採用した軽便鉄道(けいべんてつどう)であったことから、沖縄県民からは「ケイビン」「ケービン」と通称されていた。
 沖縄県はまず与那原線の工事に着手し、1914年12月に開業した。続いて糸満線の建設に着手するはずだったが、第一次世界大戦後の不況の影響で建設資金の調達がうまくいかず、1916年に建設中止が決定する。1917年7月に所得税法が施行され、所得税から経済援助の名目で国庫補助が行われることが決まると、再び鉄道建設の気運が高まった。糸満線と嘉手納線の建設順位を巡って県議会は紛糾したが、1917年12月に嘉手納線の着工が決定し、1922年3月に開業した。最後に残った糸満線は1923年7月に開業し、これにより現在の那覇市から嘉手納町、与那原町、糸満市の3方面に延びる路線網が完成した。
 太平洋戦争の末期になると軍事輸送が本格化し、1944年7月には通常ダイヤによる営業運転を終了して実質的には軍用鉄道となる。また、同年10月10日の那覇空襲によって那覇駅が焼失し、さらに11月には糸満線喜屋武 - 稲嶺間で列車爆発事故が発生している。 1945年3月には戦争の激化で完全に運行を停止し、その後の米軍上陸によって鉄道施設は破壊された。浦添市大平にある沖縄県営鉄道嘉手納線の線路戦後は朝鮮戦争の勃発による鉄不足でレールが取り集められたうえ、さらに道路や米軍基地の建設などで鉄道敷地自体が分断されてしまい、県営鉄道は事実上消滅した。正式な廃止手続きは行われておらず、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日に地方鉄道法の適用対象から外れている。なお、終戦直後の1947年11月、GHQが沖縄民政府(後の琉球政府)に対して鉄道復旧計画の立案を要求し、民政府も鉄道敷設計画を提出したが、1948年には道路整備の推進に方針転換したため実現しなかった。この計画では軌間を1067mmとし、かつての与那原線を東海岸沿いに延伸して前原、金武、名護、大宜味あたりに至る路線と、かつての糸満線に相当する路線が考えられていたようである。
 与那原線(よなばるせん)は、現在の沖縄県那覇市にあった那覇駅と、島尻郡与那原町にあった与那原駅を結んでいた、沖縄県営鉄道の鉄道路線。1914年に県営鉄道の最初の路線として開業したが、太平洋戦争末期の1945年3月に運行を停止。沖縄戦で線路施設が破壊され、そのまま消滅した。
駅一覧
那覇駅 - 古波蔵駅 - 真玉橋駅 - 国場駅 - 一日橋駅 - 南風原駅 - 宮平駅 - 大里駅 - 与那原駅
@旧那覇駅:現在は那覇バスターミナルになっている。
@那覇バスターミナル南側、国道330号線 @国道330号線旭町交差点
A壺川東公園 A壺川東公園の廃線跡
A沖縄軽便鉄道の歴史看板
(書かれている内容は下記参照)
 A南大東島でさとうきび等を運搬するために使われたディーゼル機関車(沖縄県営鉄道の機関車ではない)
 A沖縄では、本土の汽車よりも規格が小さい軽便鉄道(けいべんてつどう)というものが1945年(昭和20年)まで走り人々から「ケービン」と呼ばれ親しまれていました。
 軽便鉄道が最初に運行したのは1914年(大正3年)のことで、那覇駅(現在の市外線バスターミナル)を起点に、東海岸の港町である与那原町を結んだ与那原線と那覇港(現在の那覇埠頭)へ延びる海陸連絡線でした。
 その後1922年(大正11年)には嘉手納線が、1923年(大正12年)には糸満線が開通し、全延長距離は48.032qになりました。
 軽便鉄道は、1945年(昭和20年)沖縄戦で破壊されるまで沿線の多くの人々を乗せて走り、また、さとうきび等も大量に運搬できたため当時の沖縄の産業振興にも大きな役割を果たしました。
 ここ壺川東公園は、当時の那覇駅と壺川駅の間に位置しています。また、ここに展示している機関車はかつての軽便鉄道が走っていた場所とほぼ同じ位置に設置されています。
A重機機関車の下部 Aディーゼル機関車内部
A6DB 10L 排気量8.55L
三菱重工株式会社
川崎自動車製造所?
A岡村1段型流体トルクコンバーター
株式会社岡村製作所
A壺川東公園脇の道路(左側が軽便鉄道跡) B位置的には左側が軽便鉄道跡
 B亀甲墓(きっこうばか):沖縄では、現在でも住宅地のすぐ間近にお墓が沢山みられます。これは、かつては集団墓地が無く、個人の敷地の中にお墓を作っていたため。 C古波蔵交差点:ここから嘉手納線と別れていた。
C古波蔵交差点脇の旧古波蔵駅と思われる場所。
D国道507号線から古波蔵の北側の細い路地を入ったところが廃線跡と思われる。
E国道507号線の北側を平行して走る廃線跡と思われる場所。
F古波蔵東交差点に出る、カーブ。 F古波蔵東交差点に出る。(左側古波蔵交番)
F沖縄県畜産衛生試験場入り口  F畜産会館:初代真玉橋(マダンバシ)駅跡と思われる。
G真玉橋バス停:二代目真玉橋駅跡付近 G真玉橋遺構
 G真玉橋は、1522年(嘉靖元年)、王都であった首里と島尻地方を結ぶ主要道路に、初めて木造の橋として築かれました。
 1707年(康熙46年:中国歴?)から石橋への架け替え工事が行われ、翌年に完成。1809年(嘉慶14年:中国歴?)に一部が大雨で壊れ、1836年(道光16年:中国歴?)大規模な改修工事を行いました。
 真玉橋は、大きく美しい曲線の5つのアーチが連なり、脚部には、川の流れによる水圧を弱めるためにスーチリ(潮切り)が設けられ、構造的にも景観的にも、沖縄独特の石文化を誇る橋でしたが、1945年(昭和20年)太平洋戦争末期の沖縄戦で破壊されてしまいました。
 1996年(平成8年)戦後に作られた橋の改修工事に伴い発掘調査によって、戦前の真玉橋が現れ、那覇市側・豊見城市側の双方にその遺構を移築保存しています。
 H国場手前の排水路に沖縄県営鉄道与那原線の遺構が有ったが、マンション建設の為、護岸工事で消滅してしまっている。非常に残念な事である。      参考リンク 減速進行沖縄県営鉄道を訪ねて
H国道507号線脇の遺構が有った場所。 H国道507号線国場手前のマンション。
I旧国場駅周辺と思われる。 I旧国場駅周辺:国場交差点、糸満方面(糸満線分岐)
I糸満方面(糸満線分岐) I国道507号線一日橋方向。
 J亀甲墓(きっこうばか):沖縄では、現在でも住宅地のすぐ間近にお墓が沢山みられます。これは、かつては集団墓地が無く、個人の敷地の中にお墓を作っていたため。
K国道507号線南側の廃線跡と思われる路地 K旧一日橋駅跡と思われる場所
那覇東バイパス上間交差点
K国場川この辺に橋が架かっていいたと思われる K右下は橋台跡?
L一日橋を過ぎると廃線跡は国道の反対側へ移り、マックスバリューの裏側を通っていた様だ。
Mマックスバリュー裏。 Mこの辺に橋が架かっていたのだろうか?
N兼城交差点を過ぎた辺りから、廃線跡らしき路地がある。
この辺が旧南風原駅周辺か?
O廃線跡らしき路地を暫く行くとまた、国道329号線へ合流する。
この辺が旧宮平駅周辺と思われる。
 O国道329号を渡りこのマンション脇の斜めの部分が廃線跡か?  O左のマンション脇からこの下がった部分が廃線跡と思われる。
 P国道329号線から国道505号線へショートカットしている道は廃線跡と思われる。 P国道506号線の下を潜り
Q国道506号線を潜り、さとうきび畑の中を走る廃線跡。
R地元のおじさんに聞いたらこの道は間違いなく廃線跡と言っていた。
Sこの辺が旧大里駅跡と思われる。
@一旦県道77号線に合流し国道329号線へ @廃線跡?
@廃線跡? A与那原警察署脇の水路
A与那原警察署の中を廃線跡が通っていた? A再び廃線跡と思われる路地。
BJAおきなわ(与那原町農業協同組合)のこの場所が旧与那原駅跡。壁に与那原駅の歴史が書かれている。
 B沖縄の軽便鉄道:沖縄県営鉄道(軽便鉄道)は1914年(大正3年)の開通から、太平洋戦争によって破壊されるまで本島において唯一の鉄道で、近代沖縄の陸上交通に一大センセーションを巻き起こした。
 沖縄県営鉄道の軌間は国鉄標準より大分狭く、国鉄の1,067mmに対し762mmであった。
 与那原線は、那覇駅(現在の市街線バスターミナル)を起点に、古波蔵、真玉橋、国場、一日橋、南風原、宮平、 大里を経て与那原にいたる9.75qの、全長10.48qであり、与那原港に陸揚げされる薪炭、砂糖を主とする中北部の生産物を那覇へ運ぶ役割をになった。
 B大正3年に開業した与那原線は、昭和9年にちょうど20周年を迎えるため、与那原駅で記念式典が催された。那覇駅停車の中の20周年祝賀列車。客車11両に最後尾にも機関車をつけた。  B沖縄戦で砲弾を受けるが、骨組みは残り、戦後改修され、一部は塗り直し、現在も農協として使用されている旧与那原駅舎。
沖縄県営鉄道嘉手納線へ続く
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