廃線探索 住友別子鉱山上部鉄道

更新日時 2013年01月25日

 住友別子鉱山上部鉄道は標高800メートル以上の地点を、急峻な断崖の等高線にほぼ沿う形で敷設されていた。路線は急カーブが連続し、線路用地は石垣を築き確保されていた。伊予鉄道に続く愛媛県で2番目の鉄道として下部鉄道と共に1893年(明治26年)に開業した。別子銅山で採掘された鉱石は、角石原駅で積み込まれ、途中交換駅の一本松駅を経由し、石ケ山丈駅で降ろされ、索道で下部鉄道の端出場駅に輸送された後、港へ運搬されていた。採掘技術の進歩により坑道から直接鉱石を下部鉄道に運搬できるようになると役目を終え、1911年(明治44年)10月7日廃止された。住友別子鉱山鉄道(すみともべっしこうざんてつどう)は、愛媛県新居浜市において鉱石輸送や旅客輸送を行っていた住友金属鉱山運営の鉱山鉄道の通称である。1973年(昭和48年)の別子銅山閉山を見届けた後、1977年(昭和52年)1月31日限りで下部鉄道も廃止された。
住友別子鉱山上部鉄道 延長5,532m。
角石原駅(標高1,100m)−一本松駅(標高980m)−石ケ山丈駅(標高835m)
 住友別子鉱山上部鉄道で走っていた別子1号機関車で、別子銅山で明治25年(1892年)にドイツ・ミュンヘン州、クラウス製造所から鉱山専用鉄道用に購入されたものです。蒸気機関車としては、松山市梅津寺パークに保存されている「坊ちゃん1号機関車」とともに、四国における鉄道開発初期のものとして、新居浜地方の産業発展のため走りつづけました。尚この鉱山専用鉄道は昭和4年(1929年)から地方鉄道としての営業を開始、ついで昭和17年(1942年)には、国鉄新居浜駅との間に連絡路線が増設されて、物資の輸送をあわせて、広く一般の人々の利用をみてきました。昭和25年(1950年)に幹線が電化され、その後廃車になったこの機関車は、愛媛県立新居浜工業高校に、教材として保管展示されていましたが、「別子銅山記念館」の建設にあたって、同所に移設して、永久保存されることとなりました。この機関車がこれから紹介する山奥に走っていたなんて凄いですね。どのようにしてあそこまで揚げたのですかね。
 @『東洋のマチュピチュ』別子銅山の第三通洞脇から角石原経由銅山峰(看板では1時間40分)。最初は東平の近くに上部鉄道が走ってた思ったが、大間違いで東平からかなり登った場所に有った。(最初は上部鉄道と下部鉄道は繋がっていると思っていたが、繋がってはいるが索道で繋がっていた)本格的な登山になってしまった。8時41分登山スタート。(東平の標高は約760m)
 A馬の背経由銅山峰へ。柳谷経由でも銅山峰に行けるが、上部鉄道を効率よく見るには、馬の背経由の方がベストだ。柳谷経由と馬の背経由の分岐点8時57分。
B新居浜の町と東平(東洋のマチュピチュ)が見える。かなりの高度を登ってきた。9時6分。
Cこの辺が馬の背の様だ。9時16分。
 D太平坑と銅山峰ヒュッテとの分岐点。ここはもう上部鉄道の廃線跡。到着9時22分。新太平坑からの戻り時間9時40分。
E角石原駅と太平坑間の上部鉄道廃線跡。
F上部鉄道のトロッコの残骸と思われる。脱線して滑落したか?
G太平間符跡。9時28分。
H谷を渡り藪をかき分け100mほど先に新太平坑跡がある。冬場でこれだから夏場は無理かもしれない。
I新太平坑周辺の遺構。
I新太平坑跡。9時32分。
 J角石原選鉱場と焼鉱場:この辺りの開発が始まったのは明治時代になってからで、明治13年(1880年)に銅山と立川中宿を結ぶ牛車道が完成しこの先の大地形は中継所となっていた。その後、明治15年になって第一通洞の開削が始まり、そのズリで斜面を埋め立て、やがてそれが鉄道用地へと展開していった。明治26年上部鉄道が完成した頃、新居浜で稼働していた惣開製錬所の煙害問題がエスカレートしたので、その対策として鉱石を山元で焙焼することにして、この辺り一面、谷底から山頂に至るまで焼窯やストール式という焼鉱炉で硫黄を取り除いていた。この辺りには選鉱場があり、第一通洞から出た鉱石を選別し、横のインクラインで焼鉱炉へ上げ下げしていた。
K上部鉄道の廃線跡。枕木が残る。
 L銅山峰ヒュッテ:煙突から煙が出ている人が住んでいるようだ。ここは旧角石原停車場で別子の高橋で精錬された粗銅は、第一通洞を経由してここに運ばれ、角石原で処理した焼鉱と共に貨車に積み込まれて、上部鉄道にて5.5q先の石ヶ山丈まで運ばれた。そこからは索道で端出場まで降ろされ、更に下部鉄道で新居浜の惣開まで輸送されていた。鉄道は明治26年(1893年)に敷設され、同44年まで近代化した鉱山の象徴として走り続けたが、第三通洞が貫通して東平地区が中継拠点となったことにより、明治44年に廃止した。現在の銅山峰ヒュッテが建つ辺りが駅舎であった。現在、角野の大山積神社境内(別子銅山記念館)には当時活躍していたドイツのクラウス社製蒸気機関車が展示されている。
 M第一通洞(八丁マンプ)北口(標高1,100m)別子銅山の近代化が進むにつれて産銅の増加と生産物資や食料の輸送量が増大し、明治13年(1880年)には立川中宿まで牛車道をつけたが、1,300mの銅山越えは交通の隘路で、輸送路の短縮が求められていた。そこで、ここ角石原と別子の東延谷をトンネルで結ぶ計画を立て、明治15年第一通洞の開削に着手した。幸い、この年からダイナマイトを使用したことにより、予定より早く明治19年に代々坑に貫通した。全長1,020mであった。坑内には軌道が敷かれ、人車や馬車によって輸送を行っていた。明治44年、運搬の機能が第三通洞に移って廃止されたが、以後は人道として一般にも共用された。
M上柳谷に架かる橋梁。中型の橋台跡が残る。
 M横穴が埋められているが、そこから湧き出る水を利用している様だ。銅イオンが溶け込んで無いか心配だ。ペットボトルの水を1本持ってきていてまだ半分は残っているので、この水を飲むのは止めておこう。
Nここで上部鉄道(上側の道)と鹿森ダム(徒歩約2時間)とに分かれる。9時50分。
 N上部鉄道:海抜850mの石ヶ山丈と1,100mの角石原を結ぶ上部鉄道は、明治25年(1892年)5月建設に着手、同26年8月に完成した日本初の山岳鉄道である。沿線の地形は急崖の連続で、始めは牛車道を改良して馬車鉄道を運行する計画であったが、明治25年11月欧米の視察から帰国した住友家総理人広瀬宰平は蒸気機関車を走らせることを命じた。以来、総力を挙げて建設を続行し、僅か1年余りという短期間で完成させた。22箇所もある谷渡りには煉瓦積みの橋台が施され、特に唐谷に懸かる3連橋の橋台は石ヶ山丈駅の遺構と共に文化財として価値が高い。
O上部鉄道廃線跡。西赤石・東赤石方面分岐点。9時52分。
P上部鉄道廃線跡。小型の橋台が残る。
Q上部鉄道廃線跡。大型の橋台跡が残る。葡萄谷。9時54分。
R上部鉄道廃線跡。中型の橋台が残る。
S上部鉄道廃線跡。9時57分。
@上部鉄道廃線跡。中型の橋台が残る。下柳谷。
A上部鉄道廃線跡。小型の橋台が残る。
B上部鉄道廃線跡。橋台では無いような気がしますが・・・
C上部鉄道廃線跡。橋台では無いような気がしますが・・・
D上部鉄道廃線跡。小型の橋台が残る。
 E上部鉄道廃線跡。千人塚。10時3分。附近一帯に、小さい目印のような石や無名の墓石が不規則に並べられてた塚がある。ここは、かつて山中で行き倒れた無縁の旅人等を埋葬したものといわれ、この辺を古くから千人塚と呼んでいる。 この塚より約20km離れた所に一基の石碑がある。これは、明治20年4月建立と刻まれていて、明治時代中期、別子銅山で坑外の運搬作業に就役中、山中に歿した松山監獄(刑務所)囚人の招魂碑である。 なお、この千人塚では毎年かかさず盆の供養がつづけられている。上部鉄道と並行して、その上側に見える石垣は、明治9年(1876年)に着工し、明治13年(1880年)に完成した牛車道の跡である。 新居浜口屋から登り道・端出場・石ヶ山丈を通り別子本鋪まで、28kmの道を片道2日を要して牛車が通っていた。 
F上部鉄道廃線跡。大型の橋台が残る。桜谷。10時7分。
G上部鉄道廃線跡。大型の橋台が残る。唐谷。10時10分。
G上部鉄道廃線跡。大型の橋台が残る。唐谷。10時10分。
H上部鉄道廃線跡。小型の橋台が残る。
I上部鉄道廃線跡。吊り橋。ここにも橋梁が有ったのか?橋台跡は見つからなかった。10時12分。
J上部鉄道廃線跡。かぶと岩・西赤石方面分岐点。地図上では道が無いが・・・
K上部鉄道廃線跡。小型の橋台が残る。
L上部鉄道廃線跡。中型の橋台が残る。裏谷。
M上部鉄道廃線跡。切り通しが崩壊している。
N上部鉄道廃線跡。中型の橋台が残る。七釜谷。
O上部鉄道廃線跡。橋台跡か?
P上部鉄道廃線跡。
 Q上部鉄道廃線跡。一本松駅(標高980m)跡。10時27分着。左へ行くと東平への近道。地図上では道はないが、獣道の様な道が有り、石ケ山丈駅を見た後はこの道経由で帰る。帰り11時38分着。
 R上部鉄道廃線跡。この橋は通行止めでは無いので恐る恐る渡りました。最近は最大体重から5s減量しましたので渡れました(笑)
S上部鉄道廃線跡。中型の橋台跡が残る。
@上部鉄道廃線跡。保線小屋跡が残る。
A上部鉄道廃線跡。第二岩井谷。大型の橋台が残る。10時33分。
B上部鉄道廃線跡。第一岩井谷。大型の橋台が残る。これはさすがに渡りません。迂回です。
C上部鉄道廃線跡。中型の橋台が残る。
D上部鉄道廃線跡。埋もれているが、小型の橋台が残る。
E上部鉄道廃線跡。紫石。10時41分。
F上部鉄道廃線跡。中型の橋台跡が残る。
G上部鉄道廃線跡。中型の橋台跡が残る。10時44分。
H上部鉄道廃線跡。ダイハツの旗が散乱して汚いですね。その後の事を考えて設置して欲しいですね。
I上部鉄道廃線跡。
J上部鉄道廃線跡。
K上部鉄道廃線跡。中型の橋台跡が残る。
L上部鉄道廃線跡。大型の橋台跡が残る。地獄谷。
M上部鉄道廃線跡。索道場。
N上部鉄道廃線跡。石ケ山丈駅(標高835m)跡。11時3分。
O一本松駅−東平間の近道の途中の社宅跡。11時44分。
P一本松駅−東平間の近道。
@東平の第三変電所まで戻ってきました。11時54分。
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出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『新居浜市』を掲載」