廃線探索 松尾鉱業鉄道

更新日時 2012年05月06日

 松尾鉱業鉄道(まつおこうぎょうてつどう)は、かつて岩手県岩手郡松尾村(現、八幡平市)の東八幡平駅と、西根町(同)の日本国有鉄道(現JR東日本)花輪線の大更駅との間を結んでいた鉄道路線である。運営主体は松尾鉱業の鉄道部であった。松尾村にあった松尾鉱山と花輪線を結ぶ目的で敷設されたもので、1914年(大正3年)の創立時には手押しトロッコであったが、馬車鉄道、軽便鉄道、専用鉄道と変遷を繰り返したのち、戦後の1948年(昭和23年)に地方鉄道として開業した。接続する花輪線が現在に至るまで非電化の中、当線は直流1500Vで電化されており、大更駅構内にも架線が張り巡らされ、松尾鉱山で採掘された硫黄鉱石をはじめ、その他各種物資の輸送に大きな役割を果たした。鉱山町に住む従業員や家族のため、阪和電気鉄道由来の高速電車を投入して旅客輸送も行っており、八幡平を訪れる観光客の重要な足ともなっていた。しかしながら、回収硫黄の普及に伴う松尾鉱山の閉山により1972年(昭和47年)に廃止され、雲上の楽園と謳われ栄えた鉱山と運命を共にした。
駅一覧 廃止時点。括弧内の数値は営業キロ
東八幡平駅(ひがしはちまんたい、0.0) - 鹿野駅(ししの、7.1) - 田頭駅(でんどう、9.7) - 大更駅(おおぶけ、12.2)
@大更駅(おおぶけえき)は、岩手県八幡平市大更にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)花輪線の駅。
 @大更駅構造は相対式ホーム2面2線の地上駅。互いのホームは構内踏切で連絡している。電化私鉄であった松尾鉱業鉄道が分岐していた当時は、構内に直流1500Vの架線が張り巡らされていたが、現在ではその名残はほとんどない。直営駅(日中のみ、ただし冬期間は当直勤務)。管理駅として、東大更駅 - 兄畑駅間の各駅を管理している。みどりの窓口、自動券売機設置。1948年(昭和23年)3月15日 - 松尾鉱業鉄道大更 - 屋敷台間開業。1951年(昭和26年) - 松尾鉱業鉄道電化。1972年(昭和47年)10月10日 - 松尾鉱業鉄道廃止。
A松尾鉱業鉄道の大更駅構内跡。
B松尾鉱業鉄道の田頭駅 - 大更駅間の廃線跡。
C松尾鉱業鉄道の田頭駅 - 大更駅間の廃線跡。
D松尾鉱業鉄道の田頭駅 - 大更駅間の廃線跡。
E松尾鉱業鉄道の田頭駅 - 大更駅間の廃線跡。
F松尾鉱業鉄道の田頭駅 - 大更駅間の廃線跡。
G松尾鉱業鉄道の田頭駅 - 大更駅間の廃線跡。
H松尾鉱業鉄道の田頭駅 - 大更駅間の廃線跡。
I松尾鉱業鉄道の田頭駅 - 大更駅間の廃線跡。
J松尾鉱業鉄道の田頭駅 - 大更駅間の廃線跡。
K松尾鉱業鉄道の田頭駅 - 大更駅間の廃線跡。
K松尾鉱業鉄道の田頭駅 - 大更駅間の廃線跡。
L松尾鉱業鉄道の田頭駅 - 大更駅間の廃線跡。
M松尾鉱業鉄道の田頭駅跡。
N松尾鉱業鉄道の鹿野駅 - 田頭駅間の廃線跡。
O松尾鉱業鉄道の鹿野駅 - 田頭駅間の廃線跡。
P松尾鉱業鉄道の鹿野駅 - 田頭駅間の廃線跡。
Q松尾鉱業鉄道の鹿野駅 - 田頭駅間の廃線跡。
Q松尾鉱業鉄道の鹿野駅 - 田頭駅間の廃線跡。
R松尾鉱業鉄道の鹿野駅 - 田頭駅間の廃線跡。
S松尾鉱業鉄道の鹿野駅 - 田頭駅間の廃線跡。
S松尾鉱業鉄道の鹿野駅 - 田頭駅間の廃線跡。
@松尾鉱業鉄道の鹿野駅 - 田頭駅間の廃線跡。
A松尾鉱業鉄道の鹿野駅 - 田頭駅間の廃線跡。
A松尾鉱業鉄道の鹿野駅 - 田頭駅間の廃線跡。
B松尾鉱業鉄道の鹿野駅 - 田頭駅間の廃線跡。
B松尾鉱業鉄道の鹿野駅 - 田頭駅間の廃線跡。
C松尾鉱業鉄道の鹿野駅 - 田頭駅間の廃線跡。
C松尾鉱業鉄道の鹿野駅跡。
D松尾鉱業鉄道の東八幡平駅 - 鹿野駅間の廃線跡。
E松尾鉱業鉄道の東八幡平駅 - 鹿野駅間の廃線跡。
F松尾鉱業鉄道の東八幡平駅 - 鹿野駅間の廃線跡。
G松尾鉱業鉄道の東八幡平駅 - 鹿野駅間の廃線跡。
H松尾鉱業鉄道の東八幡平駅 - 鹿野駅間の廃線跡。
I松尾鉱業鉄道の東八幡平駅 - 鹿野駅間の廃線跡。
J松尾鉱業鉄道の東八幡平駅 - 鹿野駅間の廃線跡。
K松尾鉱業鉄道の東八幡平駅 - 鹿野駅間の廃線跡。
L松尾鉱業鉄道の東八幡平駅 - 鹿野駅間の廃線跡。
M松尾鉱業鉄道の東八幡平駅 - 鹿野駅間の廃線跡。
 N昭和26年に電化された鉱山鉄道では、50t機関車2台、25t機関車2台が導入されました。このED251は主に入替様に使われた小さい方です。
Nタービンの羽根。 N索道バケットと焼取精錬釜。
N松尾歴史民俗資料館。 N東八幡平駅から鉱山までは索道で結ばれていた。
N松尾鉱山の蒸気機関車。 N大更鉱山駅。
N松尾鉱山で産出した硫黄鉱石。 N製錬所の機関車。
 松尾鉱山(まつおこうざん)は、19世紀末から1969年まで岩手県岩手郡松尾村(現在の八幡平市)に存在した鉱山である。主な鉱物は硫黄で、黄鉄鉱も産し、一時は東洋一の硫黄鉱山であった。当地に硫黄を産する事実は古くから知られていたらしく、寛政8年(1766年)に書かれた「寄木村茶臼ヶ嶽下通、沢目筋」の硫黄の調査願いの文書があり、1879年(明治12年)にも硫黄鉱山の存在が記録されている。しかし、おそらく奥山に分け入っての採掘、輸送の困難から、開発は遅れていた。1882年(明治15年)に地元の佐々木和七が自然硫黄の大露頭を発見してから、1888年(明治21年)に小規模な試掘の試みかなされたが、失敗した。1911年(明治44年)に横浜の貿易会社増田屋が参画し、経営を掌握してから、多額の投資による本格的な採掘が始まった。鉱山がある標高約900メートルの元山(現在の八幡平市緑ヶ丘)から麓の屋敷台(東八幡平、現在の八幡平市柏台)まで索道を通し、1934年(昭和9年)に東八幡平駅から花輪線大更駅まで松尾鉱業鉄道を敷いた。一時は日本の硫黄生産の30%、黄鉄鉱の15%を占め、東洋一の産出量を誇ったが、高度成長期になると硫黄の需要減や輸入の増加で採算が悪化。さらに1960年代後半、石油精製工場において脱硫装置の設置が義務付けられたことで、脱硫工程の副生成物として得られる硫黄の生産が活発化し、硫黄鉱石の需要は完全になくなっていった。生産コストの低減を図るために露天掘りへの転換も進められたが、1969年(昭和44年)に会社更生法を申請して倒産、全従業員が解雇された。黄鉄鉱に絞った新会社が設立されたが、これも1972年(昭和47年)に鉱業権を放棄して倒産し、完全な閉山になった。
 標高900メートル前後の無人の山間に開かれた大鉱山は、必然的に鉱山町の形成を伴った。鉱山地域の人口は1920年に1132人、1935年(昭和10年)に4145人、1940年(昭和15年)に8152人、最盛期の1960年(昭和35年)には1万3594人に達した。太平洋戦争中には1940年から朝鮮人労働者が投入された。戦後は労働者の確保を図るために家族も含めた福利厚生施設の充実は急務とされた。このため公団住宅が一般化する前から、水洗トイレ・セントラルヒーティング完備の鉄筋コンクリートによる集合住宅や小・中学校、病院、活躍している芸能人を招いて公演を催す会館など、当時の日本における最先端の施設を備えた近代的な都市が形成され、「雲上の楽園」とも呼ばれた。閉山後、木造の建物は焼却され、鉄筋コンクリートの建物だけが残された。
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