更新日時 2013年04月22日

 日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)は、かつて福島県耶麻郡猪苗代町の川桁駅と沼尻駅とを結んでいた鉄道路線およびその運営会社。東京証券取引所に上場していた。1969年(昭和44年)に全線が廃止された。一般には沼尻鉄道(ぬまじりてつどう)の名前で呼ばれ、耶麻軌道(やまきどう)という名称でも呼ばれていた。本鉄道は硫黄鉱山から採掘した硫黄鉱石を国鉄磐越西線まで輸送するために敷設された貨物輸送主体の鉄道で、旅客輸送は片手間に行ってたが、硫黄鉱山閉山後は観光鉄道として脱皮を図って旅客輸送で経営を維持しようとするが休止となり、その後廃線になった。旅客輸送では磐梯山やスキー場へ行く観光客に利用されることもあり、観光シーズンの夏は学生の旅行者が多く、冬はスキー客と彼らの荷物で車内は混雑した。元来は沼尻鉱山で採れる硫黄鉱石の輸送を目的として、日本硫黄によって敷設された鉱山軌道である。
駅一覧
川桁駅(かわげた) - 白津駅(しろづ) - 内野駅(うつの) - 会津下館駅(あいづしもだて) - 荻窪駅(おぎくぼ) - 白木城駅(しらきじょう) - 会津樋ノ口駅(あいづひのくち) - 名家駅(みようけ) - 酸川野駅(すかわの) - 木地小屋駅(きぢごや) - 沼尻駅(ぬまじり)
 DC121 地元福島の協三工業製、12t級C型ディーゼル機関車。1953年製のL型機で、蒸気機関車と同様、サイドロッドによる動力伝達機構を備える。最大出力は140馬力。入線後は廃止になるまでもっぱら主力機として活躍した。DC121は福島県猪苗代町の猪苗代緑の村に保存されている。形式DC12 製造番号12069 昭和28年8月製造。
 ボサハ12・13:1928年丸山車輌製の木造ボギー客車。前所有者は栗原鉄道で同鉄道での旧番号はサハ1403・1404。窓配置はD(1)242(1)Dの非貫通密閉型で、同鉄道の改軌によって不要になり、1956年に譲り受けた。廃線後はDC121とともに福島県猪苗代町の猪苗代緑の村に保存されている。この保存車は、2両とも「ボハフ12」と表記されているが、正しくは機関車側がボサハ12、次位にボサハ13が正しい車号である。 全長8,738mm、全幅2,100mm、全高2,845mm、自重3.8t、定員50名、座席定員30名。
 上記写真は日本硫黄沼尻鉄道部〈上〉 (RM LIBRARY 113)の表紙より転載。
 @川桁駅(かわげたえき)は、福島県耶麻郡猪苗代町大字川桁字新町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)磐越西線の駅である。1960年代までは磐梯急行電鉄の接続駅だった。
 @川桁駅構造は相対式ホーム2面2線を有する地上駅。互いのホームは跨線橋で連絡している。列車の交換がない時は駅舎側の1番線を使用する。会津若松駅管理の無人駅である。
@川桁駅前には沼尻軽便鉄道記念碑が建立されている。
 @川桁駅は、沼尻軽便鉄道の始発駅として、商店が軒を並べるなどたいへんな賑わいを見せていました。近くを流れる観音寺川は、今では桜の名所として知られており、満開時には大勢の花見客が訪れます。ここから川桁山の山頂までは、観音寺川の奥の林道を通り三時間半ほどです。
 A日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の川桁駅 - 白津駅間の廃線跡。橋梁は改修され当時の物ではなさそうである。
B日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の川桁駅 - 白津駅間の廃線跡。当時の築堤跡が残る。
C日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の川桁駅 - 白津駅間の廃線跡。
 D日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の白津駅跡。白津駅(しろづえき)は、福島県耶麻郡猪苗代町八幡にあった磐梯急行電鉄(旧・日本硫黄沼尻鉄道部)の駅(廃駅)である。磐梯急行電鉄線の廃線に伴い1969年(昭和44年)3月27日に廃駅となった。昭和に入ってからの、沿線住民へのサービスの一環として新規開業した駅の一つであり、正式には白津停留場であった。当駅は、川桁駅 - 内野駅間の、未舗装の県道との併用軌道上に存在し、当駅のすぐ北側で線路と道路が交差し左右の位置が入れ替わった(当駅までは線路の左側に道路、その先は線路の右側に道路。廃止時点で、1線を有する地上駅であった。プラットホームは存在せず、乗客は地面から直接乗降した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。開業時からの無人駅となっていた。駅舎は無いが、線路の東側(沼尻方面に向かって右手側)に開放型で片流れ屋根の小さな待合所を有していた。
 D白津集落内には、樹高23m、周囲3.8m、推定樹齢450年の典型的な傘松の樹形をした「白津からかさ松」があります。集落の北東の山頂にある旧八手山城の城主、三浦経連の重臣の邸にあった木と伝えられ根本には三宝荒神を祀った小祀があります。
 E日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の内野駅跡。内野駅(うつのえき)は、福島県耶麻郡猪苗代町八幡にあった磐梯急行電鉄(旧・日本硫黄沼尻鉄道部)の駅(廃駅)である。磐梯急行電鉄線の廃線に伴い1969年(昭和44年)3月27日に廃駅となった。昭和に入ってからの、沿線住民へのサービスの一環として新規開業した駅の一つ[1]であり、正式には内野停留場であった。当駅は、川桁駅 - 当駅間の、未舗装の県道との併用軌道が終わり、専用軌道に入った位置に存在した。廃止時点で、1線を有する地上駅であった。プラットホームは存在せず、乗客は地面から直接乗降した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。開業時からの無人駅となっていた。駅舎は無いが、線路の西側(沼尻方面に向かって左手側)に開放型で片流れ屋根の小さな待合所を有していた。農業用のため池の脇に位置した。沿線風景は磐梯山を背景に絶景が続いた。 長瀬小学校 - 当駅所在地が入口になっていた。
 E内野には、中世この地を治めた猪苗代氏の居城である「亀ヶ城」の最後の城主第十四代猪苗代盛胤の墓があります。盛胤は、伊達側に寝返ろうとした父盛国を諫めましたが逆に罪を着せられ追放されました。摺上原の戦いでは、葦名方として父と戦い、葦名氏の滅亡後は蒲生氏にも仕えず、寛永十年(1641年)内野村で77才の生涯を閉じました。
F日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の内野駅 - 会津下館駅間の廃線跡。千石川を渡る橋梁。
 G日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の会津下館駅跡。会津下館駅(あいづしもだてえき)は、福島県耶麻郡猪苗代町大字三郷字下館にあった磐梯急行電鉄(旧・日本硫黄沼尻鉄道部)の駅(廃駅)である。磐梯急行電鉄線の廃線に伴い1969年(昭和44年)3月27日に廃駅となった。開業時からの駅の一つであった。交換設備を有していたが、晩年は交換設備が施錠され、無人化された。旧駅名は下館駅であるが、1923年(大正12年)11月から実施された日本国有鉄道(国鉄)との連帯運輸に備えて、国鉄(当時)水戸線下館駅と同名になることを避けるために、旧国名の「会津」を冠し会津下館駅に改称した。駅名の表記については、「会津下舘」とする資料も存在し、廃止時点の乗車券(硬券、補充券とも)にはこの文字が使用されていた。
 G下館駅は、旧町内に向かうには最も近い駅で、沼尻軽便を利用して町内へ行く人は、この駅を利用しました。今も隣には当時のトイレがそのままの形で残っています。白地に藍の染め付けが施されているトイレは、昔ながらの色彩を残す珍しいものです。
G長瀬産業組合。JAあいづ長瀬支所。
 H日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の荻窪駅跡。荻窪駅(おぎくぼえき)は、福島県耶麻郡猪苗代町三郷にあった磐梯急行電鉄(旧・日本硫黄沼尻鉄道部)の駅(廃駅)である。磐梯急行電鉄線の廃線に伴い1969年(昭和44年)3月27日に廃駅となった。昭和に入ってからの、沿線住民へのサービスの一環として新規開業した駅の一つであり、正式には荻窪停留場であった。廃止時点で、1線を有する地上駅であった。プラットホームは存在せず、乗客は地面から直接乗降した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。開業時からの無人駅となっていた。駅舎は無いが、線路の西側(沼尻方面に向かって左手側)に出入口が2つある、片流れ屋根の大型の待合所を有していた。田園地帯に位置した。
 H荻窪停留場は、ここから50mほど西の交差点にありました。停留場の西側は、当時は小高い山が沢山ありましたが、今では田園風景が一面に広がり、秋の収穫時には磐梯山の紅葉と黄金色の稲穂が見事なコントラストを見せてくれます。
I日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の窪駅 - 白木城駅間の廃線跡。
J日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の窪駅 - 白木城駅間の廃線跡。
 K日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の白木城駅跡。白木城駅(しらきじょうえき)は、福島県耶麻郡猪苗代町蚕養にあった磐梯急行電鉄(旧・日本硫黄沼尻鉄道部)の駅(廃駅)である。磐梯急行電鉄線の廃線に伴い1969年(昭和44年)3月27日に廃駅となった。昭和に入ってからの、沿線住民へのサービスの一環として新規開業した駅の一つであり、正式には白木城停留場であった。廃止時点で、1線を有する地上駅であった。プラットホームは存在せず、乗客は地面から直接乗降した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。開業時からの無人駅となっていた。駅舎は無いが、線路の西側(沼尻方面に向かって左手側)に開放型で片流れ屋根の小さな待合所を有していた。当駅のすぐ川桁方に「5‰」の勾配標があり、待合所の向かいには「7」のキロポストが存在した。
 K白木城集落は、明治21年7月の磐梯山噴火により、国道115号線付近から現在地に移転しました。以前の集落跡には、猫石様として祀られている岩があります。養蚕が盛んだった村は、この神に拝礼すれば養蚕て鼠が近づかないと信じられていました。
L日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の白木城駅 - 会津樋ノ口駅間の廃線跡。
 M日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の会津樋ノ口駅跡。会津樋ノ口駅(あいづひのくちえき)は、福島県耶麻郡猪苗代町蚕養にあった磐梯急行電鉄(旧・日本硫黄沼尻鉄道部)の駅(廃駅)である。磐梯急行電鉄線の廃線に伴い1969年(昭和44年)3月27日に廃駅となった。開業時からの駅の一つであった[1]。当線のほぼ中間地点に位置し、晩年は途中駅で唯一の列車交換可能な交換駅となっていた。通標は川桁駅 - 当駅間が「○」、当駅 - 沼尻駅間が「□」であった。旧駅名は樋ノ口駅であるが、1923年(大正12年)11月から実施された日本国有鉄道(国鉄)との連帯運輸に備えて、他の駅と同名になることを避けるために、旧国名の「会津」を冠し会津樋ノ口駅に改称した。但し、当時、国鉄の駅に樋ノ口駅(あるいは樋口駅)は存在せず、秋田県の横荘鉄道(後の羽後交通横荘線)に同音の樋の口駅が存在したのみである。尚、駅名の表記については、最晩年の1968年(昭和43年)4月に撮影された写真にて、駅舎の駅銘板が「会津樋の口」となっていたことが確認出来る。廃止時点で、2線を有する地上駅で、列車交換可能な交換駅であった。中間駅で唯一、下り線側(西側)のみであるがプラットホームが存在した。上り線側(東側)には他の駅同様存在せず、乗客は地面から直接乗降した。そのほか駅舎と上り線の間に副本線が1線、またその副本線沼尻方から分岐し小さな転車台を有した行き止りの側線を1線有した。職員配置駅となっていた。駅舎は構内の西側に位置していた。木造の駅舎であった。駅舎とは別棟でトイレ棟を有した。トイレ棟は駅舎の南側に位置していた。構内には蒸気機関車時代の給水槽が2基残存していた。ホームの北側、駅舎からは線路を挟んで向かい側に存在し、駅舎から見て右側がコンクリート製、左側が鉄製であった。
 M会津樋ノ口駅は、沼尻軽便鉄道全線の中間駅であったため、ここで列車交換が行なわれ、駅周辺には店舗や旅館が建ち並び、人々が往来しました。近くの天徳寺境内には、推定樹齢700年の一位の木があります。木の精が住職の枕元で「寺とともにありたい」と言ったことから境内に移植されました。
N日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の会津樋ノ口駅 - 名家駅間の廃線跡。
O日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の会津樋ノ口駅 - 名家駅間の廃線跡。酸川を渡る橋梁が有った。
 上記写真は日本硫黄沼尻鉄道部〈上〉 (RM LIBRARY 113)より転載。
 P日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の名家駅跡。名家駅(みょうけえき)は、福島県耶麻郡猪苗代町若宮にあった磐梯急行電鉄(旧・日本硫黄沼尻鉄道部)の駅(廃駅)である。磐梯急行電鉄線の廃線に伴い1969年(昭和44年)3月27日に廃駅となった。1937年(昭和12年)、当地附近に東京電灯秋元発電所が建設されることとなり、その建設工事に際し、当鉄道が建設資材の輸送に使用されることとなった。それを受けて、秋元発電所への専用構外線が仮設されることとなり、本線との分岐点として当駅が新設された。専用構外線は発電所の完成に伴い1941年(昭和16年)5月28日限りで使用が終了となり、その後撤去され、当駅は旅客専用となった。正確な開業年月日は不詳であるが、1937年(昭和12年)12月16日に新設申請され、1938年(昭和13年)4月4日施工認可、当時は仮停留場、専用構外線使用終了翌日の1941年(昭和16年)5月29日営業開始とあった。正式には名家停留場であった。廃止時点で、1線を有する地上駅であった。プラットホームは存在せず、乗客は地面から直接乗降した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。無人駅となっていた。駅舎は無いが、線路の西側(沼尻方面に向かって左手側)に開放型で片流れ屋根の小さな待合所を有していた。待合所の駅名標には「みようけ」と記載されていた。
 P名家停留場は、田んぼの中に一軒家のように建っていました。停留所の西側には、当時としては東北最大級の十万七千キロワットを出力する秋元水力発電所が昭和16年に完成し、主に東京方面に向けて電気の供給が開始された。
 Q日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の酸川野駅跡。酸川野駅(すかわのえき)は、福島県耶麻郡猪苗代町若宮にあった磐梯急行電鉄(沼尻鉄道)の駅(廃駅)である。磐梯急行電鉄線の廃線に伴い1969年(昭和44年)3月27日に廃駅となった。昭和に入ってからの、沿線住民へのサービスの一環として新規開業した駅の一つであり、正式には酸川野停留場であった。廃止時点で、1線を有する地上駅であった。プラットホームは存在せず、乗客は地面から直接乗降した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。開業時からの無人駅となっていた。駅舎は無いが、線路の北西側(沼尻方面に向かって左手側)に開放型で片流れ屋根の小さな待合所を有していた。
 Q現在の国道115号線が軽便軌道であり、集落に入ると道路との交差部が酸川野踏切でした。ここは危険であったため、当時としては珍しく警報機が付けられていました。集落の北東には、醍醐帝の第四皇子といわれ、百人一首でしられる「蝉丸」の墓があります。
 R日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の酸川野駅 - 木地小屋駅間の廃線跡。廃線跡は田んぼが整備され痕跡が残っていない。
 S日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の木地小屋駅跡。木地小屋駅(きじごやえき)は、福島県耶麻郡猪苗代町若宮(開業時は旧・吾妻村)にあった磐梯急行電鉄(旧・日本硫黄沼尻鉄道部)の駅(廃駅)である。磐梯急行電鉄線の廃線に伴い1969年(昭和44年)3月27日に廃駅となった。開業時からの駅の一つであった。交換設備を有していたが、晩年は交換設備が施錠され、無人化された。駅名標には「きぢごや」と表記されていた。廃止時点で、1線を有する地上駅であった。プラットホームは存在せず、乗客は地面から直接乗降した。かつては2線を有する列車交換可能な交換駅であった。使われなくなった駅舎側(北側)の旧下り線は、交換設備運用廃止後も側線として残存していたが、方開き分岐の転轍機は鎖錠され、「鎖錠」と記載された立て札が立てられていた。そのほか本線の沼尻方から構内外側に分岐する行き止りの側線を1線有した。無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の北側に位置していた。駅舎とは別棟でトイレ棟を有した。荷物取扱時は、薪炭や木材などの産出量が群を抜いて多かった。当駅から沼尻駅の区間は人家の全く無い原野で、40‰の勾配となっていた。
 Sこの駅は、地区の主要産業である林業で栄えた駅です。吾妻山系から切り出された木材や木炭は○通運送店に依頼されて木地小屋駅から軽便に積み込まれ、主に関東方面に出荷された。
@日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の木地小屋駅 - 沼尻駅間の廃線跡。
A日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の木地小屋駅 - 沼尻駅間の廃線跡。
B日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の木地小屋駅 - 沼尻駅間の廃線跡。
C日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の木地小屋駅 - 沼尻駅間の廃線跡。
D日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の木地小屋駅 - 沼尻駅間の廃線跡。
 E日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の木地小屋駅 - 沼尻駅間の廃線跡。日本硫黄沼尻鉄道最大の遺構の橋台及び橋梁が残っている。
 F日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の木地小屋駅 - 沼尻駅間の廃線跡。先ほどの橋梁の先は小屋が建っていて廃線跡は途切れている。
 上記写真は日本硫黄沼尻鉄道部〈下〉 (RM LIBRARY 114)の表紙より転載。
 F日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)の沼尻駅跡。沼尻駅(ぬまじりえき)は、福島県耶麻郡猪苗代町若宮にあった磐梯急行電鉄(旧・日本硫黄沼尻鉄道部)の駅(廃駅)である。磐梯急行電鉄線の廃線に伴い1969年(昭和44年)3月27日に廃駅となった。開業時からの駅の一つで、当線の終着駅として開業した。旧駅名は大原駅であるが、1923年(大正12年)11月から実施された国鉄との連帯運輸に備えて、他の駅と同名になることを避けるために、沼尻駅に改称した。当駅から沼尻鉱山のある選鉱所までは索道で結ばれていた。廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の南東側(沼尻方面に向かって右手側)に存在した。そのほか、本線のホーム部分の真北に車輌転回用のデルタ線を有し、デルタ線の先端部は側線として長く伸び、さらに途中から計3線の側線が分岐し、うち1線は沼尻鉱山の精錬所から結ばれた索道で運ばれて来た硫黄の積込設備への引込線、残り2線は倉庫への貨物側線であった。また、デルタ線の左辺に当たる部分の途中から分岐しさらに2線に分岐する工場線、及び本線川桁方から構内南西方に分岐しさらに2線に分岐、片方には小さな車庫が設置された車庫線も有した。硫黄の積込設備では、屋内でバケットから無蓋貨車に積載された。職員配置駅となっており、駅舎は構内の南東側に位置しホーム中央部分に接していた。上記写真の建物は旧駅舎を再利用したものである。
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廃線探索 日本硫黄沼尻鉄道