更新日時 2011年11月21日

 陸軍兵器補給廠専用線:東京兵器補給廠は、大日本帝国陸軍の機関の一つ。兵器・弾薬・機材などの補給、要塞の備砲工事を担当した。明治に陸軍板橋兵器庫が稲付に設置され、昭和3年に東京兵器補給廠となる。陸軍兵器補給廠専用線は翌年の昭和4年に敷設。跡地は米軍戦車練習場が設置された。返還後の陸上自衛隊十条駐屯地赤羽地区(旧・陸上自衛隊武器補給処赤羽支処(陸上自衛隊十条駐屯地赤羽地区分屯地)・陸上自衛隊補給統制本部赤羽西地区)の一部他。後に赤羽自然観察公園と、ナショナルトレーニングセンター陸上競技場となる。現在の北区赤羽西5丁目。
 @陸軍兵器補給廠専用線跡。陸軍兵器補給廠専用線を通すため、赤羽八幡の参道及び石段を付け替えた。陸軍兵器補給廠専用線廃止後、現在の参道となる。
 @赤羽八幡として知られ、昔の赤羽村、下村、袋村、岩淵宿、稲付村の惣鎮守でした。 伝説では、延暦3年(784)に征夷大将軍の坂上田村麻呂が東夷征伐の折、この地に陣を取り、 遙かに八幡三神を勧請して武運長久を祈られ、その後、源頼光が社殿を再興、源頼政が改修、 太田道灌の父・資清が社領として土地を寄進し、道灌が社殿を再興(文明元年・1469)したとあります。江戸時代には、三代将軍家光の時に社領七石を与えられ、以後代々将軍家より御朱印を寄付されました。この神社は武蔵野台地の東北端にあり、その下には東北新幹線、埼京線が通り、 北の玄関口として交通の安全を守護しています。 現在の社殿は昭和6年の夏に竣工したもので、のち昭和63年に本殿が改築されました。赤羽八幡神社は、昔より武士の信仰が篤く、現在では「勝負の神」として、受験生やスポーツ選手をはじめ広く信仰されています。
@陸軍兵器補給廠専用線跡。参道の脇には旧国鉄の境界杭が残る。
@陸軍兵器補給廠専用線跡。赤羽八幡入口は新幹線の高架下。
A陸軍兵器補給廠専用線跡。旧国鉄の境界杭が残る。
B陸軍兵器補給廠専用線跡。ここから廃線跡は北区立赤羽緑道公園になる。
C陸軍兵器補給廠専用線跡。遊歩道にタイルで線路跡の模様を描いている。
D陸軍兵器補給廠専用線跡。遊歩道にタイルで線路跡の模様を描いている。
 E陸軍兵器補給廠専用線跡。赤羽保健所通りに架かる橋の欄干には、車輪のデザインがほどこされています。
E陸軍兵器補給廠専用線跡。赤羽保健所通りに架かる橋より廃線跡を見る。
F陸軍兵器補給廠専用線跡。遊歩道にタイルで線路跡の模様を描いている。
G陸軍兵器補給廠専用線跡。
H陸軍兵器補給廠専用線跡。遊歩道にタイルで線路跡の模様を描いている。
I陸軍兵器補給廠専用線跡。
 I陸軍兵器補給廠専用線跡。「エ」マークは無いが、御影石の旧国鉄の境界杭と思われる。もしかしたら、陸軍兵器補給廠専用線時代の境界杭かもしれない。
J陸軍兵器補給廠専用線跡。
K陸軍兵器補給廠専用線跡。鉄橋を模したモニュメントが有る。
L陸軍兵器補給廠専用線跡。北区立赤羽緑道公園はここで終わり。
M陸軍兵器補給廠専用線跡。陸軍被服廠跡にも引き込み線が分岐していた。
N陸軍兵器補給廠専用線跡。
O陸軍兵器補給廠専用線跡。
P陸軍兵器補給廠専用線跡。道路に挟まれた細い家が廃線跡。
Q陸軍兵器補給廠専用線跡。道路右側の家が廃線跡。凸版物流脇の空き地が廃線跡。
R陸軍兵器補給廠専用線跡。凸版物流脇の空き地が廃線跡。
S陸軍兵器補給廠専用線跡。路地脇のマンションが廃線跡。
@陸軍兵器補給廠専用線跡。ナショナルトレーニングセンター陸上競技場が陸軍兵器補給廠跡。
A陸軍兵器補給廠専用線跡。ナショナルトレーニングセンター陸上競技場のテニスコート脇が廃線跡。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
廃線探索 陸軍兵器補給廠専用線