更新日時 2013年02月27日

 宮若市石炭記念館は旧大之浦小学校校舎跡に昭和52年5月に開設され、かつて炭鉱王と云われた貝島太助翁を創始者とした貝島炭鉱の協力を得て、当時の資料を中心に、器材・写真など日本有数と称される文献又、篤志家の揮毫による油絵の大作などが保存されています。また、屋外にはCサイドタンク式機関車が展示されています。1884年貝島炭鉱による石炭採掘が始まり,1902年には筑豊本線勝野駅から九州鉄道(JR宮田線,1989廃止)が開通して,筑豊炭田有数の大炭鉱町に発展した。1955年には町としては日本最大の人口(5.5万人)を擁したが,石炭合理化政策によって炭鉱は相次いで閉山し,人口は半減した。完全閉山の昭和51年までの90年間におよそ1億トンの石炭を出炭しました。その間には石炭災害による多くの犠牲者もありましたが, 明治21年には貝島大之浦小学校を開校するなど, 地域に貢献しました。
利用時間:午前9時から午後5時まで
休館日:月曜日・毎週木曜日の午後・年末年始(12月29日から翌年1月3日まで)・祝日
問い合わせ先:宮若市石炭記念館 電話0949-32-0404 住所 宮若市上大隈573
 屋外展示のCサイドタンク式機関車:大正8年(1919年)、購入価格34,500円、重量26.5t、長さ8,312mm×幅2,432mm×高さ3,110mm。この機関車はアメリカロコモチーフ製造所に発注購入したもので、貝島炭鉱の石炭採掘に伴う充填用土砂を現在の庄司(飯塚市)より各鉱に運搬することを主な任務として活躍し、多くの人々から親しまれ走り続けて来ました。沿線にこだまする汽笛は深い哀愁をさえ讃え、当時を知る人々の心に今もその勇姿がが刻み込まれています。展示用の屋根を支える柱があり、撮影角度が難しいですね。
宮若市炭鉱記念館。 玄関前にトロッコの台車がある。
玄関に貝島炭鉱で取れた石炭を展示。 宮河町立体模型図。
 貝島炭鉱専用鉄道(庄司より各坑充填ピットロまで)は、大正9年2月より始まる。当時世界一と云われた、充填用砂を保有する庄司に160町歩を買収し充填に飛躍的な成果をあげる原動力となった。なつかしい充填汽車は、それから60年近くも走り続けたことになる。いまは煙をはかない機関車が町公民館前に保存されているが、はなやかな時代、機関手から駅長の肩に格好良く渡されていたタブレットがこれである。
筑豊炭田の路線図。
貝島炭鉱専用鉄道路線図。廃線探索の参考になります。
石炭貨車を引く22号。 宮田〜飯塚間の踏切。
貝島大之浦炭鉱充填土砂運搬鉄道高架鉄橋。 1967年6月11日撮影。
 福利厚生設備(炭鉱住宅)従業員全体の思想の引き締めをはかる一方で、従業員の住宅の改善、浴場の整備、倶楽部の設置等をすすめて、その生活の向上をはかるとともに慰安・娯楽の場所を提供した。電灯は、桐野発電所の設置によって、明治42年から各坑坑外でも架設されるようになった。当初は炭鉱事務所、工場、職員社宅、単身坑夫合宿所(大納屋)街灯に限られていたが、大正2年8月の「納屋電灯規定」により、発電所電力の余裕がある場合に限って、これを一般納屋にも供給するものとした。納屋電灯は一戸一灯限りとし、希望者が八燭光の炭素線電球(職員社宅は金属電球も使用可能)を分配所から購入して取り付けるものとした。電気代は1ヶ月15銭を徴収した。管牟田、桐野、満ノ浦、大辻、岩屋、とも翌大正3年に架設工事が行われ、納屋街に電氣の明かりが輝いた。大正9年5月、坑夫納屋の呼称を廃止して坑夫社宅と呼ぶようになった。従来納屋には1等納屋(職工納屋・模範鉱夫納屋・甲号納屋)、2等納屋(乙号納屋・雑夫納屋・6畳納屋)、3等納屋(四畳半納屋)の別があった。一般坑夫は四畳半一間の3等納屋に住み、流しは外に取り付け裏を半間障子とし、便所は2棟に1戸の共同便所であった。しかし、大正9年上半期に建築された第3号坑夫社宅は、6畳一間で、これに掾を付け、流しを土間に取り付け、押し入れを広くした。共同便所も1棟に1戸ずつ附属させた。大正14年頃における社宅の一間建て二間建ての割合は、概ね相半する程度まで改善された。
旧大之浦小学校教室。 なぜか祠が。
鉱山関係の機械・工具類。 宮田町石炭記念館。
宮田町及び鉱山関連の看板類。
鉱山関係の機械・工具類。
鉱山関係の機械・工具類。
鉱山関係の機械・工具類・賞状等。
鉱山関係の工具類。
鉱山関係の工具類。
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