更新日時 2010年09月21日
佐渡金山(さどきんざん)は、新潟県佐渡市の佐渡島にある金山である。鉱石は主に銀黒(ぎんぐろ)と呼ばれる石英中に輝銀鉱および自然金の微粒子が脈状に存在するものであった。1601年に金脈が発見されて以来、江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。江戸時代初期すなわち慶長から寛永年間にかけての最盛期には金が1年間に400kg、銀が40トン以上採掘される日本最大の金山であり、産銀についても日本有数のものであり江戸幕府による慶長金銀の材料を供給する重要な鉱山であった。なかでも相川鉱山は、江戸幕府が直轄地として経営し、大量の金銀を産出した佐渡鉱山の中心であった。産出し製錬された筋金(すじきん/すじがね)および灰吹銀は幕府に上納され、これを金座および銀座が預かり貨幣に鋳造した。また特に銀は生糸などの輸入代価として中国などに大量に輸出され、佐渡産出の灰吹銀はセダ銀とも呼ばれた。鉱山の労働者の給与水準も高く、周辺の町は大変栄えたという。江戸時代後期には江戸から約1,800人の無宿人(浮浪者)・罪人が強制連行され過酷な労働を強いられたが、これは見せしめの意味合いが強かったと言われる。無宿人は主に水替人足の補充に充てられたが、これは海抜下に坑道を伸ばしたため、大量の湧き水で開発がままならなくなっていたという金山側の事情もある。現在は金の値段と労働賃金がつりあわなく採算が取れないため採掘を中止して、観光施設となっている。坑道の総延長は実に約400kmに及ぶが、そのうち約300mが観光ルートとして公開されており、採掘風景を再現した人形が70体あまり設置されている。 | |
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大切山坑:この坑口は大切脈の開発のため寛永8年(1631年)に山師味方与次右衛門によって開かれ18年後の慶安2年(1649年)に着脈したものです。味方与次右衛門は、青盤間歩の大盛りによって銀600貫を得たため手代共にこの銀で田地を求めようかそれともよき場所を選んで新坑を開こうかを尋ねました。手代の一人が大切山を開いたならば必ず大盛りを得られ子孫に対し田地に劣らざる重宝であろうと申し出たので与次右衛門も決意して開坑に着手したと言われております。大切脈まで400m以上有るため坑道の断面を大きくすると共に、並行して別の坑道を掘り、ところどころで貫通させ空気の入れ換えをよくするように配慮しております。 | |
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青盤脈及び道遊脈の露頭:正面が青盤脈、右手の山が割れて見えるのが道遊脈です。青盤脈は走行N75°〜80°E、走行延長2100m、傾斜60°N乃至80°S、傾斜延長500m、脈幅最大30m、脈幅平均6mで佐渡金山のチャンピオン脈として稼行されました。道遊脈はN70°E、走行延長120m、傾斜80°N、傾斜延長150m、脈幅最大35m、脈幅平均10mで山が割れているのは露天掘りの跡で「道遊の割れ戸」として佐渡金山のシンボルになっています。 | |
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大立竪坑:明治維新以降明治政府は佐渡鉱山を国の直轄鉱山とし、欧米より積極的に技術を導入し鉱山の再開発を計りました。大立竪坑はドイツ人アドルフ・レー等の企画実施により明治8年開削が開始され、明治10年に完成された日本最古の洋式竪坑です。竪坑の断面は18尺(4.45m)×8尺(2.42m)の矩形で深さは約500尺(150m)であり動力は当初馬絞車と称する馬力捲揚が行われたが数年にして蒸気機関を使用するようになりました。この竪坑はその後幾多の変遷を経ながらも平成元年まで鉱山の中心施設として活躍しました。 | |
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明治新政府は明治2(1869)年、佐渡鉱山を主要鉱山として官営化することを決め、西洋人技術者を招いて大規模な近代化に着手します。この過程では、国内初の西洋技術が数多く佐渡鉱山で実地に使われ、モデル鉱山として近代化を先導しました。史跡佐渡金山の周辺には、時代ごとの産業遺産が今でも数多く残っており、鉱山技術の変遷をご見学いただけます。「慶長6(1601)年、佐渡金山発見の端緒となった大鉱脈の露頭掘跡が「道遊の割戸」です。山の中央をV字に立ち割った壮大な景観は佐渡金山のシンボルで、壁面にも多くの坑道跡がご覧いただけます。江戸時代には主に地表部の採掘が行われましたが、明治以降も割戸の下部で大規模な開発が行われました。 | |
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大立竪坑脇の坑口。坑口にもレールが見える。 | |
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坑口かと思ったが奥行きは5m程度でした。 | |
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石積アーチ橋:この橋はここあいのやま間ノ山地区と、山手の高任地区との連絡橋として明治時代に建設されました。濁川の上流・下流2カ所にあり、下流側の橋は昭和13年(1938年)まで使われました。上流側の橋は現在も使用されています。下流の橋の内壁には「佐渡鉱山 卅七年十一月」と記された建設当時「明治37年(1904年)」の銘板が残っています。明治期に建造され、現存する橋が少ないことから、当時の技術を知る貴重なものとして、平成20年(2008年)に「登録有形文化財」として登録されました。 | |
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破砕場:運ばれてきた鉱石をクラッシャーで径15cm以下に破砕する。容量2500トンの貯鉱舎。ここから北沢選鉱・精錬所に運ばれる。 | |
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搗鉱場跡:搗鉱場は低品位の鉱石を粉砕し、水銀を用いて金を回収する施設で、佐渡鉱山が官営鉱山だった時代の明治24年(1891年)と明治26年(1893年)に、それぞれ第1、第2搗鉱場が完成しました。当時の最先端技術だった搗鉱精錬の威力は全国から多くの見学者を集めたとされます。両搗鉱場は大正13年(1924年)の火災で焼失し、翌14年(1925年)に新設されました。第2次世界大戦中の昭和18年(1943年)国が金の大増産政策を廃止し、銅や鉄、鉛などの生産に転換したことに伴い、この搗鉱場も操業を停止しました。現在残されているのは、大正14年(1925年)に建設された搗鉱場の基礎部分です。 | |
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金山茶屋のサザエ丼 800円。 | |
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貯鉱舎から北沢選鉱・精錬所に繋がる、トロッコの廃線跡。 | |
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貯鉱舎から北沢選鉱・精錬所に繋がる、トロッコの廃線トンネル跡。 | |
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貯鉱舎から北沢選鉱・精錬所に繋がる、トロッコの廃線トンネル跡。 | |
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貯鉱舎から北沢選鉱・精錬所に繋がる、トロッコの廃線トンネル跡。 | |
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貯鉱舎から北沢選鉱・精錬所に繋がる、トロッコの廃線トンネル跡。 | |
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佐渡奉行(さどぶぎょう)は、江戸時代の官職の一つ。老中配下の遠国奉行の一つで、関ヶ原の戦いを経て佐渡島が上杉氏から幕府の支配下となった慶長6年(1601年)に設置された。当初は佐渡代官と呼ばれており、正式に佐渡奉行と名乗ったのは、元和4年(1618年)着任の鎮目惟明、竹村嘉理の代からである。寛永12年(1635年)〜明暦2年(1656年)までの一時期は勘定奉行が兼任。正徳2年(1712年)以降は、定員が基本的に2名となる。芙蓉の間席で1000石高、役料は1500俵、役扶持100人扶持。慶応3年(1867年)には禄高にかかわらず3000両の役金が支給された。佐渡奉行は佐渡島内の民政を管轄する町奉行と、長安期に開発された佐渡金山をはじめとする金銀山の経営を管轄する山奉行があった。他にも佐渡の海上警衛、年貢の取立を役務とし、幕末には外国船の監視も行っている。配下には組頭2人、広間役7〜8人。以下、定役、並役、使役、同心、牢守、水主など300人いた。陣屋は当初は鳴子に設置されていたが、大久保長安のころに相川(現在の新潟県佐渡市相川広間町(旧相川町))に移転され佐渡奉行所(相川陣屋、国の史跡「佐渡金山遺跡」の一部)となる。また、島内5(後に4)か所に代官所を設置した。 | |
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明治18(1885)年、初代佐渡鉱山局長に就任した大島高任による第二次近代化の主要工事では、北沢地区に選鉱・精錬施設が建設されました。この工事では、選鉱場から港までの約1キロを結ぶ日本初の架空索道(空中ケーブル)が建設されるなど、当時最先端の西洋技術が導入されました。昭和13(1938)年から、国を挙げて金の大増産が始まると、北沢地区には月間7万トンの鉱石処理が可能な「東洋一の浮遊選鉱場」が建設されました。 | |
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佐渡相川郷土博物館:佐渡鉱山の縮小にともなって、その鉱山資料を保存するため昭和31年、町立博物館として発足した。建物は、三菱鉱山移管以前の御料局時代のもの。館内には、貴重な鉱山資料をはじめ考古資料、開府民俗資料が保管されている。この建物は明治18年工部省官営当時並びに28年御料局佐渡支庁当時の貴重な洋風二階建て、建物で当時の面影を今に伝えて、興味深いものがある。 | |
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佐渡技能伝承館:無名異(むみょうい)の里に隣接している。相川地区の伝統工芸である「無名異焼」と「裂織り」が体験できます。裂織りは、古い布をとりあわせて織る素朴で味のある織物です。地元の女性の指導で貴重な体験ができます。また無名異焼のロクロ体験も楽しいですよ。無名異は、ロクロ、ひも造り、名入れ(彫り込み)の3種類から選べます。 | |
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北沢地区工作工場群は、濁川を挟んだ北沢浮遊選鉱場の対岸に位置し、佐渡金山の各施設で使用する機械部品類の製造や修理のために作られた施設である。この場所には、明治20年代には、すでに選鉱・精錬施設のほかに、器機製作場や鍛冶場などが設置されていた。さらに昭和10年代の大増産時代になると、木工工場や鋳造工場、仕上工場、製缶工場、分析所など複数棟の施設が作られ、昭和27年(1952年)まで稼働したが、時間の経過とともに多くの施設が撤去された。平成20年、明治以降の施設全容を確かめるために発掘調査が行われ、当時の建物の基礎部分が残っていることが判明した。現在の広場は、昭和の大増産時代の建物配置に基づいたものである。 | |
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旧北沢青化・浮選鉱所跡。 | 北沢浮遊選鉱場跡。 |
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鋳造工場跡:鋳造工場は木型工場で組まれた木型を基に作られた鋳型へ溶けた金属を流し込み、様々な種類の機械部品を製造する施設であった。鋳造工場や鍛造工場などで製造された機械部品は、仕上工場で最終的な加工作業が行われた。発掘調査によって、鋳造工場のコンクリート製の柱や巨大な地下穴、煉瓦敷きの床面などが見つかった。また、鉄を溶かすためのキューポラも残っており、当時の工場施設の規模がよくわかる貴重な構造物である。 | 手前の製材及雑作業場跡では、機械部品の原型となる木型用材を製材加工した。 シックナー:昭和15年(1940)に完成した直径50mの泥鉱濃縮装置である。濁川上流にある間ノ山揚鉱場から排出された泥状の金銀を含んだ鉱石は、この装置で水分を分離する工程を経たのち、対岸へと送られた。対岸の北沢浮遊選鉱場では、他の金銀原料と―緒に処理されて精鉱が産出された。 |
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トロッコのレールが残る。 | |
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新潟県佐渡島の佐渡金山・北沢選鉱・精錬所のインクラインの跡。 | |
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北沢浮遊選鉱場跡。 | 北沢火力発電所跡 (現在は資料館)明治40年建設の佐渡で最初の火力発電所(出力500kW)それまでは15kWの水力発電所のみ。 |
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