更新日時 2023年04月28日

鉱山鉄道(軌道)写真集
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2023年04月吉日 白根硫黄鉱山軌道:群馬県吾妻郡草津前口に有って、本白根山の東南側中腹に位置し風光明媚の地を占めている。鉱山事務所は草津温泉街の南西 約4kmの地点にあり旧爆裂火口底の平地に位置し海抜1,289mで夏季は気候凉しく來快であるが冬季は気温低く積雪1m以上に及ぶことがある。1933年(昭和8年)10月に株式会社白根硫黄鉱業所により硫黄が採掘された。1941年(昭和16年)製錬炉18基(硫黄月産1,000t)。1957年(昭和32年)坑内に電気機関車を設置。1968年(昭和43年)硫黄生産、焼取及び蒸気での生産合計月産5,000〜5,500t以上。1974年(昭和49年)3月に閉山。
2023年04月吉日 石津硫黄鉱山軌道:石津鉱山は坑内から貯鉱場まで、そして貯鉱場から精錬窯までの運搬軌道化するなど、近代的鉱山として生まれ変わり、昭和35年の石津鉱山街は世帯数17戸、人口755人を数えるなど活況を呈した。昭和30年代半ば頃より鉱量の涸渇が懸念されてきたが、探鉱に努め昭和38年新たな城山鉱床を発見。昭和43年にはそれまでの主体であった米無鉱床の採掘は終了した。しかし城山鉱床もあまり開発が進まず、昭和46年6月30日閉山。
2022年12月吉日 高平鉱山軌道:高平鉱山は栃木県鹿沼市上久我の馬返地区にあった鉱山で、加蘇鉱山に隣接している。馬返地区には、「加蘇鉱山」「高平鉱山」「第3加蘇鉱山」の鉱山があり、1930年代から1950年代まで稼行していた。古生層中のチャート、粘板岩を母岩とする脈状の鉱床。1940年(昭和15年)にすでに稼働した記録があり、その後、永田宏弘が1941年(昭和16年)東加蘇鉱山の平田より譲り受けた。永田時代には5号坑をおもな出鉱坑道にした。1950年(昭和25年)鉱業権が早川武義に移る頃より電力化を行い、主力を5号坑に注いだ。
2022年12月吉日
2021年10月吉日
2014年12月吉日
2014年01月吉日
2013年11月吉日
加蘇鉱山軌道:加蘇鉱山は栃木県鹿沼市上久我の馬返地区にあった鉱山である。本鉱山の主要鉱石は、灰色炭マンを主としたマンガン鉱石である。多くの鉱山でも同じようにトロッコ軌道を有し、廃坑後もトロッコ軌道のレールが残る。馬返地区には、「加蘇」「高平」「第3加蘇」の鉱山があり、1930年代から1950年代まで稼行していた。古生層中のチャート、粘板岩を母岩とする脈状の鉱床。
2022年10月吉日 白嶺鉱山軌道:白嶺鉱山は群馬県吾妻郡草津町に有り草津町の北西西方直距4.5km、白根山の南東斜面で入道沢に沿う標高1,650mに位置する。入道沢に有るために通称入道沢鉱山と呼ばれている。戦後は万座鉱山株式会社が稼行した。鉱床青葉熔岩の下部中に胚胎する鉱染状交代鉱床で、1坑・新盛坑・新坑・第1神風坑・通洞坑によって開発された。白嶺鉱山跡は索道の鉄塔が数基残り、鉱石を積み込む索道のコンクリート製建物が残る。
2022年06月吉日 某現役鉱山軌道:日本国内にある現役の鉱山でバッテリーロコ及び木製バケット鉱車が稼働している。
2022年05月吉日 下川鉱山軌道:下川鉱山は北海道上川総合振興局管内の上川郡下川町にあった鉱山。銅、硫化鉄、亜鉛などを産出した。42年間の操業で平均銅含有率2.34%の含銅硫化鉄鉱を約700万t産出した。1941年に軍需上の要請で三菱鉱業株式会社による本格的な探鉱が開始された。1944年には軍需会社法の指定を受け、物資や労働力の優先取扱いを受け規模が拡張した。1950年三菱鉱業より分社、太平鉱業株式会社下川鉱業所となる。下川鉱山〜落合の沢川間の通洞が貫通。
2022年05月吉日 庶路炭鉱軌道線:庶路炭鉱と本岐炭鉱を結んでいた軌道線。庶路炭鉱とは、北海道白糠郡白糠町に存在した釧路炭田の炭鉱である。明治鉱業庶路炭鉱は同社が昭和11年(1936年)頃に白糠郡白糠町西庶路の鉱区を買収し昭和39年(1964年)頃まで稼動していた。現在でも炭鉱のホッパー、ズリ山、トンネルなどが残っているが炭住(炭鉱住宅)はすべて撤去されている。本岐炭鉱へ抜ける専用線の隧道も現存。
2022年05月吉日 尺浦隧道・浦幌炭鉱軌道:尺別炭鉱と浦幌炭鉱間に1941年(昭和16年)11月に竣工した尺浦隧道の坑口跡が尺別炭鉱側、中間部の直別川沿い、浦幌炭鉱側に杭口が残る。浦幌炭鉱は北海道十勝郡浦幌町にあった炭鉱で1895年(明治28年)に古河鉱業が探鉱。留真坑・双運坑・太平坑から出炭して石炭は馬車軌道で浦幌駅へ運んでいた。1936年(昭和11年)に三菱雄別炭鉱鉄道が買収し尺別炭鉱の管理下となる。当初は尺別炭鉱まで索道で運搬していたが、1941年(昭和16年)11月に竣工した尺浦隧道が出来ると運炭は尺浦隧道経由に変わる。
2022年04月吉日 城峰鉱山(半納鉱山)軌道:城峰鉱山(半納鉱山)は埼玉県秩父市吉田石間半納にあったマンガン鉱山。小規模に採掘されていて、軌道跡は確認出来なかったが、索道のワイヤーと思われる物が落ちていたので鉱山軌道に分類した。
2022年03月吉日 八塩鉱山軌道:八塩鉱山は群馬県藤岡市鬼石にあった鉱山。産出した鉱石はあられ石や水苦土石、クロム鉄鉱等を産出した。緑色片岩相の蛇紋岩で蛇紋岩に伴うクロム鉱床。水苦土石は塩基性炭酸マグネシウムの鉱物の一つ。超塩基性岩中の脈鉱物として産し、中性ないしアルカリ性、十分に水分のある地表条件下での産物。また苦灰岩の接触帯中や洞窟循環水中に懸濁状態で産することがある。他の含水炭酸マグネシウムの鉱物とともに産することが多い。
2021年12月吉日 第2大蔵鉱山軌道:第2大蔵鉱山は飯能市にあった小規模のマンガン鉱山。西吾野駅の西側約3km程の上久通の川の上流にある。軌道跡は確認出来なかったが鉱山ではトロッコが使われている場合が多くあり鉱山軌道に分類した。埼玉県の鉱山で一番多く存在したのがマンガン鉱山で大小約70あまりの鉱山が存在した。主な鉱石として炭酸マンガン鉱を採掘し鉱床の幅は約1.0m、総延長は約20m、鉱石の推定埋蔵量は100t。
2021年12月吉日 大蔵鉱山軌道:大蔵鉱山は飯能市にあったマンガン鉱山。吾野駅の北方約10km、正丸峠南方約2km、飯能市南川大倉山に位置していた鉱山で豊岡金属により操業されていた。軌道跡は確認出来なかったが鉱山ではトロッコが使われている場合が多くあり鉱山軌道に分類した。埼玉県の鉱山で一番多く存在したのがマンガン鉱山で大小約70あまりの鉱山が存在した。1939年から1944年にかけてはマンガンが303t採掘され1973年(昭和43年)までの累計で2,000t〜2,500tのマンガンが採掘された。
2021年10月吉日 東加蘇鉱山軌道:本地域は足尾山塊の東部地域に属し横根山(海抜標高1,372.3m)より南西方に4〜5条の山脈が走り南西方に向うに従い、その高度を減じ永野村山口附近・中粕尾・中粟野・加蘇村加園附近に至つては海抜標高500m以下の丘陵性の地形となる。これらの山脈の間を荒井川・粕尾川・永野川等の河川が南西方に流れ、いずれも利根川に合流する。本鉱山の主要鉱石は灰色炭マンを主としたマンガン
2021年12月吉日 十六舞(吾野マンガン)鉱山軌道:埼玉県飯能市坂石に有ったマンガン鉱山。チャートブロック中の層状マンガン鉱床。十六舞鉱山や吾野鉱山と呼ばれていた。鉱脈の幅は約1m、深さは約20m、総延長は約20m程の小規模の鉱山。推定出鉱量は約1,100tで戦前に掘られていた鉱山。
2021年10月吉日 第二加蘇鉱山坂本軌道:本地域は足尾山塊の東部地域に属し横根山(海抜標高1,372.3m)より南西方に4〜5条の山脈が走り南西方に向うに従い、その高度を減じ永野村山口附近・中粕尾・中粟野・加蘇村加園附近に至つては海抜標高500m以下の丘陵性の地形となる。これらの山脈の間を荒井川・粕尾川・永野川等の河川が南西方に流れ、いずれも利根川に合流する。本鉱山の主要鉱石は灰色炭マンを主としたマンガン鉱石。軌道跡は確認出来なかったが、鉱山では軌道が使われている事が多くあり鉱山軌道に分類した。
2021年10月吉日 岩尾鉱山軌道:岩尾鉱山は北海道増毛郡増毛町にあった鉱山で硫黄・褐鉄鉱を採掘していた。1938年(昭和13年)頃から明星鉱業が岩王鉱山として開発。1943(昭和18)年太平洋戦争による硫黄鉱山整備令により休山。戦後、壊滅的なダメージを受けた諸工業に先駆けてまず農業が復興する。その農業を支えたのが農薬と化学肥料の製造であった。硫黄はこの農薬と化学肥料の重要な原料である。農業の復興と時を同じくして硫黄鉱山の操業も再開された。1957年(昭和32年)に再開するが、昭和40年代に閉山した。
2021年10月吉日
2019年09月吉日
2018年10月吉日
小串硫黄鉱山軌道:1916年(大正5年)から硫黄採掘が始まって硫黄精錬の燃料に樹木を伐採したことと、精錬時に発生する亜硫酸ガスが吹き付けられて樹木が枯れてしまい、附近一帯が裸山になってしまった。 群馬側には未舗装路が続き、ジロー坂と呼ばれるつづら折を下った先には小串硫黄鉱山跡がある。1937年(昭和12年)11月11日に大規模な地すべり災害(山津波)が発生し245名が死亡した。精錬所の火が燃え広がり、火薬を貯蔵していたため大規模爆発が起こった。当時の名残として、峠には硫黄製品や資材を搬送した索道跡が残されている。
2021年08月吉日 稲倉石鉱山軌道:北海道西部後志総合振興局管内の古平町にあった鉱山。稲倉石山西麓に位置した。稲倉石鉱山は山師の大井嘉蔵、猪股五兵衛、和田清作が1885年7月(明治18年)に稲倉石の沢にて蒔材を流送中に金鉱石を偶然発見したことに始まり、当初は金山と銀山であったが昭和初期から日本有数のマンガン鉱山となり1960年(昭和35年)ごろが最盛期であった。大江鉱山と稲倉石鉱山はともに北進鉱業株式会社の経営する鉱山で大江鉱山が本山で稲倉石鉱山がその支山となっている。稲倉石鉱山では月に2,500tのマンガン鉱を出鉱し手選の上送鉱していた。
2021年08月吉日 某Y鉱山軌道:某Y鉱山軌道は金、銀、銅、鉛、亜鉛、硫化鉄、マンガン鉱を産出する採試掘鉱区があり、選鉱された鉱石のうち銅鉱と鉛鉱は精錬所へ、亜鉛鉱などは他社へ売却。当時の職員数66名、従業員(請負者含む)700名の在籍を数えた。社員や関係者の家族を含めれば2千人を超える人たちの集落が昭和30年頃にあった。
2021年08月吉日 大江然別鉱山軌道:大江然別鉱山は北海道余市郡仁木町にあった鉱山で、ポンシカリベツ川上流の稲倉石山東麓に位置する。1890年(明治23年)に発見、然別鉱山として金・銀・鉛・銅を産出。鉱山全体で約4000人以上が暮らし、学校や駐在所、病院などを建設。1903年(明治36年)に休坑、1915年(大正4年)久原鉱業が鉱業権を取得し大江鉱山と改称し亜鉛を採掘。1929年(昭和4年)日本鉱業株式会社が経営。1941年(昭和16年)マンガン鉱山して稼働。
2021年02月吉日
2020年10月吉日
2019年06月吉日
2019年05月吉日
2019年04月吉日
2014年12月吉日
奥多摩工業曳鉄線:奥多摩工業株式会社(おくたまこうぎょう 英称:Okutama Kogyo CO.,LTD.)は、主に東京都西部の奥多摩地区を中心に、石灰の採掘、販売を行う太平洋セメント系列企業である。会社設立時の社名は奥多摩電気鉄道(おくたまでんきてつどう)で、御嶽駅と氷川駅(現・奥多摩駅)を結ぶ鉄道路線の敷設免許を保有していた。路線が開通する前に免許を国に譲渡し、JR青梅線として開通している。1937年(昭和12年)6月奥多摩電気鉄道株式会社設立。
2020年09月吉日 春日鉱山白河軌道:春日鉱山白河坑で使われていた鉱山用のバッテリーロコ、鉱車、バケットローダーなどが残る。春日鉱山は現社長清水藤彌氏が戦後、揖斐郡にて御影石を採掘中付近にドロマイ ト鉱が産するのを発見し昭和26年採掘に着手し現在に至つた。地層は古代のドロマイ トと粘板岩、砂質粘板岩,縞状珪岩の互層より成り立つている。ドロマイト(dolomite)は、鉱物である苦灰石(CaMg(CO3)2)、あるいは岩石である苦灰岩を指す。どちらを指すか区別できないので、苦灰岩のことはドロストーン(dolostone)ともいう。また、鉱石名としても使われる。
2020年08月吉日
2012年11月吉日
尾去沢鉱山軌道:尾去沢鉱山(おさりざわこうざん)とは、秋田県鹿角市にあった鉱山である。銅や金が採掘された。1978年(昭和53年)に閉山した。跡地はテーマパーク・史跡 尾去沢鉱山として開業している。銅のほか、金、銀、鉛、亜鉛が産出された。採掘された鉱石は、坑道の下部より抜き取られ、鉱車に積み込み立坑へ運ばれます。立鉱では鉱車を1台ごとにエレベータ(ケージという)で巻揚げ通洞坑を経由して坑外の選鉱場へ送られました。
2020年08月吉日
2010年07月吉日
釧路コールマインは、北海道釧路市に本社を置く日本の唯一の坑内掘石炭生産会社。閉山した太平洋炭礦を縮小の上、引継いだ。太平洋石炭販売輸送株式会社(たいへいようせきたんはんばいゆそう)は、石炭の販売や鉄道事業、倉庫業、不動産業などを行う太平洋興発グループの企業である。本社は 東京都中央区明石町8-1に、事業所は北海道釧路市春採8丁目1-13にある。
2020年08月吉日
2010年07月吉日
釧路コールマインナローゲージは、北海道釧路市に本社を置く日本の唯一の坑内掘石炭生産会社。閉山した太平洋炭礦(たいへいようたんこう)を縮小の上、引継いだ。釧路コールマインが採掘している石炭は、釧路市の中心街から広く7km以上にわたり海底下に眠っています。炭層は沖合いに向って5度〜6度の緩傾斜でのびており、この緩やかな炭層が炭鉱の機械化に最も適しているため、当社は世界有数の機械化炭鉱として操業しています。坑内は東西約2.2km、南北約4kmにわたって広がっています。
2020年08月吉日
2010年07月吉日
三井芦別鉄道は、北海道芦別市で鉄道事業を行っていた鉄道事業者、あるいは同社が運営した芦別駅と頼城駅を結ぶ鉄道路線である。旅客部門は炭鉱合理化に伴う沿線人口の減少、並行バス路線の充実により、1972年(昭和47年)5月末に運行を取り止めた。残った石炭輸送も、三井芦別炭鉱の合理化に伴い1989年(平成元年)3月に廃止され、炭鉱自体も1992年(平成4年)9月に閉山となった。かつての入山駅 - 中の丘駅間に架かる炭山川橋梁に、ディーゼル機関車DD501と石炭貨車セキ3000が保存展示されている。
2020年08月吉日 住友赤平炭鉱軌道:1895年に空知炭礦の疎水坑が空知川に向けて開設されたのが、赤平最初の炭鉱着工。1938年(昭和13年)に住友赤平炭鉱が開坑。赤平は石炭産業とともに発展し1950年代には鉱業都市としてその最盛期を迎えた。その後のエネルギー革命により炭鉱の合理化が進み1994年(平成6年)の住友赤平炭鉱の閉山により約100年に及ぶ炭鉱の歴史に幕が下ろした。住友赤平炭鉱竪坑は1963年(昭和38年)に完成。総工費約20億円。高さ43.8m、深さ650m。最盛期の出炭量は年間190万t、約5千人が働いていました。
2020年03月吉日 弥栄鉱山は滋賀県甲賀市にあった鉱山で中品位のマンガンが採掘されていた。1934年(昭和9年)当時の鉱業権者は弥栄鉱業株式会社となっている。 1945年(昭和20年)代後半、中央電気鉱業株式会社が休山中であった弥栄鉱山の再開発を計画。1956年(昭和31年)4月から採掘を開始。1968年(昭和43年)6月に閉山した。その後、辻中鉱業がこれを引き継いだが操業を中止、以来廃坑となっている。
2020年03月吉日 上田石灰鉱山軌道:上田石灰鉱山は滋賀県米原市のJR醒ヶ井駅の北側にあった鉱山。醒ヶ井駅との間に専用軌道が敷設されており築堤跡が見られる。1912年(明治45年)6月21日、石灰を最寄の醒ヶ井駅へ搬出する軽便鉄道の敷設願書が出されている。大正2年8月、醒井村石灰業組合総代土居本次郎が醒井村大字枝折−醒ヶ井駅間、総延長1.4kmに石灰原料と製品輸送用の軽便軌条敷設の出願。 山肌に石灰採掘場跡が見られる他、木橋を渡った先に草木に埋もれた鉱山跡が残る。
2020年03月吉日 清水工業業春日鉱山軌道:清水鉱業は炭酸カルシウム・ドロマイト・土づくり肥料・珪灰石・その他鉱産物、製造販売。道路・ガラス用炭酸カルシウムのトップメーカーで、明治21年3月に金生山鉱山にて石灰石の採掘を開始する。昭和26年3月岐阜県揖斐郡春日村に春日事業所を開設しドロマイト鉱の採掘を開始。昭和59年8月春日鉱山で露天採掘を開始し、年産35万トンのドロマイト破砕設備を新設。静岡経済連のアヅミン苦土石灰を生産していたようだ。
2020年03月吉日 土倉鉱山:1910年(明治43年)採掘を開始した銅鉱山。1907年(明治40年)に中島善十郎が杉野川近くで銅鉱石を発見したことを始まりとする。当初は現在の場所より約2km先の奥津奥土倉で選鉱されていたが、雪害による被害が多発したため、1940年(昭和15年)に1.8kmの通洞坑を掘削し、全ての施設を現在の場所に移動した。埋蔵量の低下とコスト高さらに海外からの安い銅が入ることになり1965年(昭和40年)に閉山。1942年(昭和17年)に完成した浮遊選鉱場(3代目)。約2km先の奥土倉には2代目の浮遊選鉱場が残っている。
2020年03月吉日 三井三池炭鉱万田軌道:第一竪坑櫓は1899年(明治32年)、第二竪坑櫓は1908年(明治41年)に完成しました。これらの坑口施設の完成に伴い、巻揚機室、汽罐場、選炭場、事務所等の諸施設が完成し、1902年(明治35年)から出炭を開始。三池炭鉱は團琢磨(だんたくま)等の努力により採炭技術の近代化が急速に進められ、明治、大正、昭和期を通じてわが国の近代化の牽引役を担い、各種産業の勃興、発展を促しました。
2020年03月吉日 三井三池炭鉱宮原軌道:宮原坑は七浦坑および宮浦坑の採炭が深部に至ったことで、坑内排水の効率が悪化したことから七浦坑の南870mの採炭区域内に設定した試錘の場所に新竪坑を開坑したことに始まります。当初は、明治初期から官営三池炭鉱の操業開始以来、旧来の主力坑であった大浦坑、七浦坑、宮浦坑等の命脈を伸ばすべく排水の用を兼ねる坑口としての役目が開さくの計画でした。操業後は揚炭・入気・排水・人員昇降その他を兼ねる主力坑として年間40〜50万トンの出炭を維持しました。
2020年03月吉日 三井三池炭鉱三川軌道:三川坑は、三井鉱山三池鉱業所の一施設で、三池港の近くにある。第一斜坑・第二斜坑とがあり、いずれも坑口は幅約6m・高さ3.3mのアーチ型で、有明海の海底に向かって西へ、傾斜約11度、長さ2km以上の坑道が伸びている。戦争遂行のため石炭増産が求められる中、1937年に建設が開始され、1940年に完成した。戦後復興期には三井鉱山の最主力坑となり、1949年に昭和天皇が入坑するほどであった。
2019年12月吉日
2012年10月吉日
上田陶石小田床鉱床下部軌道:天草陶石が発見されたのは、かなり古く元禄年間に旧高浜村皿山及び旧下津深江村で採掘されていたと伝えられていますが、定かではありません。正徳2(1712)年頃、肥前の製陶業者に天草陶石を供給したのが、製陶原料として使用した始めとされています。天草陶石の採掘は代々上田家の事業として、江戸〜明治中期を経てその間陶石脈の探査開発を行い、明治45(1912)年高浜皿山に馬車軌道並びに自転巻軌道を施設し、本格的な量産体制に入りました。
2019年10月吉日 伊豆猪戸鉱山:金・銀(1977〜閉山)猪戸金属鉱業(株)伊豆猪戸鉱山は静岡県下田市にあった鉱山。鉱山事務所跡、坑道、軌道跡・BL、鉱車などが残る。
2019年10月吉日
2013年02月吉日
伊豆天城鉱山は中外鉱業がかつて保有していた鉱山で金銀を産出していた。中外鉱業は1987年に鉱山事業から撤退し、その後、伊豆鉱山株式会社が引き継ぎ、ごく最近まで操業していたと思われる。現在でもバッテリーロコが廃屋のような機関庫に眠っている。そのバッテリーロコの状態からごく最近(道路占有標識から1995年頃)まで操業していたと思われるが、詳細の情報はインターネットで検索しても出てこない。伊豆天城鉱山の坑口は今でも残っていて、非常に貴重な廃鉱山である。
2019年09月吉日 金丸鉱山軌道:金丸鉱山のペグマタイト鉱床はカリ長石を主とし露頭 付近では石英のきわめて少ない鉱床であり、第二次大戦 以後急速に開発され規模が大きいため、今日我が国の主要な長石資源供給地になつた。鉱石の運搬は各坑口から本索道起点まで 軽索で集積し山元一金丸駅選鉱場4,650mの距離を索道運搬による。索道の搬出能力は1日約120tと言われる。
2019年09月吉日 八谷鉱山は山形県米沢市入田沢にあった、金、銀、銅、鉛、亜鉛などを主に産出した鉱山である。廃山となって採掘をやめ、坑道より出る坑水による鉱害を防止するため排水処理を行っている。処理後の水は小樽川や鬼面川に流される。 1887年(明治20年)頃開坑。1956年(昭和31年)尾富鉱業に移管。1960年(昭和35年)日本初の坑内地下選鉱場ができた。1973年(昭和48年) 坑道の総延長が30kmとなる。1975年(昭和50年) 200名以上の労働者がいた。昭和後期、円高や非鉄金属の価格の暴落で人員整理を行う。1988年(昭和63年)3月2日閉山。
2019年09月吉日
2019年06月吉日
滑川鉱山軌道:滑川鉱山は山形県米沢市の吾妻連峰の中腹にあった戦時下に開発された鉄山鉱山。褐鉄鉱が採掘された。 第三紀層の凝灰岩と安山岩とからなる地質で鉱床は褐鉄鉱床。林山鉱業株式会社が1941年より採掘を開始し渇鉄鉱を軍需用に採掘したが露天掘りの第一鉱床が1966年に掘り尽くされ 1968年に山王鉱業株式会社に移譲され上流の第二鉱床で採掘が続けられたが1970年に閉山。採掘された鉱石は奥羽本線の峠駅まで索道(全長5300m)が架設され鉱石が運搬され、貨物列車に積まれ、東新潟港から船で八幡製鉄所まで運ばれた。
2019年06月吉日 蔵王鉱山軌道:蔵王鉱山とは、かつて山形県上山市大字中川字永野に存在した鉱山。硫黄、硫化鉄鉱などを産出した。 昭和16年には硫黄年産8,500トンとなる。戦後は藤山コンツェルン系の日東金属鉱山が経営。硫黄の採掘がピークを迎え、1950年代には従業員が約600人および家族が1,200人規模となり、企業城下町を形成した。しかし1960年代にはいると、海外からの輸入品に押され経営が次第に苦しくなった中、1962年12月に大規模な坑内火災が発生。事実上採掘が停止し、翌1963年(昭和38年)3月31日に閉山を迎えた。
2019年05月吉日
2019年03月吉日
2011年04月吉日
JFEミネラル(旧鋼管鉱業)武蔵野鉱業所:JFEミネラル武蔵野鉱業所(埼玉県飯能市大字上名栗字下白岩2160)は武蔵白岩鉱山(埼玉県飯能市)から採掘される石灰石は非晶質で軟らかく、高純度であり、ガラス瓶・食器をはじめとする工業用原料、建材、肥料・飼料用に使用されていた。2015年(平成27年)3月武蔵野鉱業所閉鎖。
2019年02月吉日 日立セメント索道。名称が似ているが、日立製作所のグループ企業ではない。大平田鉱山からセメントの原料である石灰石を工場に搬出するために1937年に架空索道が山間部に約4kmに渡って敷設された。 索道は複線式で分速105mの速度で運行されており1つの搬器に1.25tの石灰石を積載できる。 かつて各地に存在した鉱石搬送の架空索道としては、日本で最後に残ったものである。地元では鉄索(てっさく)の愛称で呼ばれている。 なお,市街地はベルトコンベアーで搬送している。
2018年03月吉日 大宮鉱山軌道:大宮鉱山(おおみやこうざん、別名:日高鉱山)は、埼玉県日高市の中部にあるマンガン鉱山である。明治から大正時代、坑道により採掘。 1945年(昭和20年)以降、露天掘りにより採掘。秩父帯の付加体の中にあるチャート層(白亜紀古世、1億3000万年前)に含まれていた海底マンガン団塊が変成してできた変成マンガン鉱床で、関東山地付近一帯のマンガン鉱山と同様である。白亜紀新世(1億年前)に三波川変成作用によるパンペリー石アクチノ閃石相の広域変成を受けている。
2017年10月吉日
2013年03月吉日
紀州鉱山鉄道:紀州鉱山は昭和9年(1934年)石原産業がこの地域に多数の鉱脈があることに着目して、鉱山事業を始めるために鉱区買収をしたことから始まります。以来、閉山の昭和53年(1978年)に至るまでの44年間、開発初期段階や太平洋戦争後の数年間を除き、年間2,000トン以上の銅を産出し、全盛期の昭和40年(1965年)前後には、その産銅量が3,000トンを超える国内屈指の銅鉱山でした。紀州鉱山の鉱山鉄道を利用したトロッコ列車が走っている。
2017年06月吉日 乙女鉱山軌道:乙女鉱山は、山梨県牧丘町(現山梨市)にあった鉱山である。1981年閉山。乙女という名はこの鉱山で採れる、タングステンの鉱物を運ぶのが女性であったからだと言われている。若い男性は坑内で鉱石を掘り、年老いた女性は鉱石の選別、そして若い女性は鉱石を運ぶという役割があったという。この鉱山では、灰重石の仮晶となった鉄重石、石英などが採れた。この石英は光学ガラスに使われていた。また、ここの水晶は商品価値を高めるために、塩酸で洗い、周りについている鉱物を落としていた。
2017年05月吉日 住友金属鉱山軌道:別子銅山は、愛媛県新居浜市の山麓部にあった銅山。1690年(元禄3年)に発見され、翌年から1973年(昭和48年)までに約280年間に70万トンを産出し、日本の貿易や近代化に寄与した。一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。最初の採鉱は海抜1,000メートル以上の険しい山中(旧別子山村)であったが、時代と共にその中心は新居浜市側へ移り、それにつれて山の様相も変化していった。
2017年05月吉日
2009年07月吉日
住友金属鉱山下部鉄道は、1977年まで愛媛県新居浜市において鉱石輸送や旅客輸送を行っていた住友金属鉱山運営の鉱山鉄道(一時期地方鉄道)の通称である。「別子鉱山鉄道」や「別子鉄道」とも呼ばれた。伊予鉄道に続く愛媛県で2番目の鉄道として上部鉄道に先駆けること9ヶ月、当時住友財閥の初代総理人であり、別子銅山の総支配人でもあった広瀬宰平の専用鉄道として1893年(明治26年)3月15日に開業した。主に別子銅山から採掘された銅鉱石を製錬所や港湾へと輸送する役割を担ったが、1973年(昭和48年)の別子銅山閉山を見届けた後、1977年(昭和52年)1月31日限りで廃止された。
2017年05月吉日
2017年04月吉日
某鉱山軌道:日本の山奥には見捨てられた廃坑が幾つも有りますが、この廃坑はその中の一つです。場所は坑口としては比較的アクセスしやすい場所ですが、大人の諸事情がありますので某鉱山としておきます。その筋の方には写真を見れば直ぐ解る場所だと思います。この隧道の奥には斜坑があり・・・
2017年04月吉日 三富鉱山軌道:三富鉱山は山梨県山梨市三富広瀬にあり、中央線塩山駅の北方25kmに当る。鉱床は山梨県・長野県・埼玉県の3県境界の甲武信岳南東方約4km、鶏冠山東方2kmの地点にあつて、海抜1,750m附近に位置する。そこから、索道でヌク沢まで降ろして、その後はヌク沢採石軌道東沢軌道を経由して三塩軌道に接続し、塩山駅まで運んでいた。この鉱床は、第2次世界大戦中に電気化学工業株式会社によつて一部開発稼行されたことがある。その後、山梨県により1954年(昭和28年)硅石採取開始。1961年(昭和36年)東沢軌道廃止。
2017年03月吉日 坂越大泊鉱山は兵庫県赤穂市にあった金山。 1959年に試掘され、翌1960年に営業採掘が始まった。初期はロウ石を主に採掘していたが、後に金、銀に切り替えられた。しかし採掘量が確保できず、集中豪雨被害もあり、1974年に閉山。 鉱山事務所跡、ホッパー跡などが残る。
2017年03月吉日 土橋鉱山軌道:土橋鉱山は坑内堀をしている日本国内では数少ない現役の鉱山で、良質のセリサイト(絹雲母)を産出する。セリサイト(絹雲母)の予想埋蔵量も200万トン以上で国内最大。また、ろう石(パイロフェライト系)、硅石なども採掘している。創業は昭和25年(1950年)、「ろう石の町」である備前市三石にて、60年にわたって採掘を続けています。
2016年11月吉日 細倉鉱山軌道:細倉鉱山は宮城県栗原市にあった、鉛、亜鉛、硫化鉄鉱を主に産出した鉱山である。最盛期は岐阜県の神岡鉱山に次ぐ規模の、日本を代表する鉛、亜鉛の鉱山であった。1934年(昭和9年)に三菱鉱業が細倉鉱山の経営権を獲得して本格的開発に乗り出し、戦中戦後の混乱はあったが、日本を代表する鉛、亜鉛の鉱山へと成長した。細倉マインパークは、宮城県栗原市鶯沢にある細倉鉱山跡を利用したテーマパーク。1990年オープン。
2016年04月吉日 多田銀銅山軌道:多田銀銅山は旧摂津国、現在の兵庫県川西市、猪名川町および大阪府池田市の広範囲にわたり坑道が開堀されてきた銀山である。主な鉱石は黄銅鉱、斑銅鉱、方鉛鉱、輝銀鉱および自然銀であり、鉱脈の成因は熱水鉱床である。寛文年間に銀および銅の産出が急増するに至り銀山に代官所が置かれ、銀山村が形成され天領となり幕府の支配が強化された。寛文年間初頭には年間の産出高が、銀1,500貫(約5.6トン)、銅70万斤(約420トン)に達したという。
2015年11月吉日 尾小屋鉱山軌道:尾小屋鉱山とは、かつて石川県小松市尾小屋町に存在していた銅山である。1880年(明治13年)に加賀藩の家老であった横山家が経営に加わり、銅山としての試掘を開始。1886年(明治19年)に銅鉱石の新鉱脈が発見されてから隆盛期を迎える。1896年(明治29年)洪水を機に坑内の施設を近代的なものに変え、1903年(明治36年)には銅生産量が1,000tを超えた。その後、1920年(大正9年)の2度のストライキを経験するなど労働争議が頻発し、1931年(昭和6年)には経営が行き詰まる。
2015年01月吉日 吉岡銅山軌道笹畝坑道:吉岡銅山 笹畝坑道(よしおかどうざん ささうねこうどう)は岡山県高梁市にある吹屋銅山の観光用の坑道。江戸時代は日本6大銅山の一つに数えられベンガラの産地として繁栄した吹屋銅山の構成要素であった銅山の坑道と採掘現場の遺構である。807年(大同2年)の発見と伝える歴史ある銅山の町「吹屋」が1977年に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されたのを受けて、1979年11月に一般公開された。
2015年01月吉日 吾野鉱山鉄道:かつて吾野鉱山から砕石を発送していた頃、吾野駅構内(築堤が残存)及び西側の砕石積込設備(現存)へ貨車を配していた。埼玉県西部に位置する西武建材吾野鉱山鉱業所は昭和初期より操業を開始した歴史の古い鉱山で、岩質は石灰岩、砂岩を産出しており、 主にコンクリート用骨材、道路用砕石を生産、販売。1978年(昭和53年)3月31日貨物営業廃止。
2014年12月吉日 日窒鉱業道伸窪通洞:秩父鉱山とは、埼玉県秩父市の西方、中津川上流にある鉱山。現在の運営会社は株式会社ニッチツ事業開発本部。秩父鉱山周辺は秩父帯の堆積岩であるが、石英閃緑岩マグマの貫入によって接触変成している。特に石灰岩との接触によってスカルン鉱床を形成しており、採掘の対象となる結晶質石灰岩(大理石)や各種の金属鉱物が産する。1600年頃、秩父鉱山発見。甲斐武田氏が金・砂金を採掘。1950年日窒鉱業株式会社(現在のニッチツ)設立。1969年珪砂の採掘を開始。1978年金属採掘を中止。
2014年12月吉日 奥多摩工業専用索道:奥多摩工業株式会社(おくたまこうぎょう 英称:Okutama Kogyo CO.,LTD.)は、主に東京都西部の奥多摩地区を中心に、石灰の採掘、販売を行う太平洋セメント系列企業である。会社設立時の社名は奥多摩電気鉄道(おくたまでんきてつどう)で、御嶽駅と氷川駅(現・奥多摩駅)を結ぶ鉄道路線の敷設免許を保有していた。路線が開通する前に免許を国に譲渡し、JR青梅線として開通している。1937年(昭和12年)6月奥多摩電気鉄道株式会社設立。
2014年09月吉日 池島炭鉱軌道:池島炭鉱は、西彼杵半島の西沖合約7kmにある周囲約4kmの池島(長崎県長崎市、旧外海町)周辺の海底に広がる炭鉱で九州最後の炭坑の島でもある。三井松島産業の子会社である松島炭鉱により、1959年より出炭が始まり、のちに閉山後の松島に建設された電源開発(J-POWER)の石炭火力発電所に石炭を供給した。隣接地での旺盛な需要により石炭の採掘は1980〜90年代にかけても進められ、最盛期の1985年には150万トンを越える石炭が採掘された。
2014年08月吉日
2013年11月吉日
北隆鉱山軌道:北隆鉱山は1928年開坑。そのきっかけは、山火事で露出した金鉱石が偶然に発見されたという稀なケースで、1935年に青化精錬所開設、さらに私設発電所を備え、それに伴い採鉱量も順調に伸び続けました。北隆鉱山の操業規模は非常に大きく、最盛期の従業員は500人を超えました。福利施設や小学校、郵便局、電気水道などに加え、日用品の配給や映画などもあり、鉱区外には料理屋もでき、「山中の不夜城」として盛栄を誇りました。
2013年12月吉日 松代大本営跡は、太平洋戦争末期、大日本帝国の国家中枢機能移転のために長野県埴科郡松代町(現在の長野市松代地区)などの山中(象山、舞鶴山、皆神山の3箇所)に掘られた地下坑道跡である。このうち現在、象山地下壕(ぞうざんちかごう)が一般公開(無料)されている。初期の計画では、象山地下壕に、政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。皆神山地下壕に皇居、大本営の施設が予定されていた。
2013年07月吉日 粟代鉱山軌道(現役):三信鉱工株式会社は、愛知県北設楽郡東栄町に本社を置くセリサイト(絹雲母)の採掘精製会社である。粟代鉱業所は絹雲母原砿石の採掘作業や、鉱脈探鉱の為の掘進作業を主に行っております。当地の絹雲母鉱床はその成因から非常に小さい事が常であり、採掘スタッフは「手作業」で原砿石の採掘を行っています。
2013年07月吉日 明延鉱山軌道:明延鉱山とは、兵庫県養父市大屋町明延でかつて操業していたスズ、銅、亜鉛、タングステンなどの多品種の非鉄金属鉱脈をもつ鉱山。特にスズは日本一の鉱量を誇っていた。粗鉱生産量は、ピーク時の戦時中から1951年(昭和26年)頃には月産 35,000 t、閉山前頃には、銅、亜鉛、スズの粗鉱生産量が月産 25,500 t であったが、プラザ合意後の急激な円高に伴う銅、亜鉛、スズの市況の下落により、大幅な赤字を計上することとなり、まだ採掘可能な鉱脈を残して、1987年(昭和62年)1月31日午後11時20分の発破を最後に、同年3月をもって閉山した。
2013年07月吉日 明神電車(一円電車)は、かつて兵庫県大屋町(現・養父市)・朝来町(現・朝来市)の明延鉱山にあった鉱山用軌道。明延(あけのべ)と神子畑(みこばた)を結ぶことからその名がついた。鉱石の輸送を目的に敷設された。本来は神子畑 - 新井(国鉄播但線)間の下部軌道とワンセットの上部軌道に位置づけられていたが、道路整備で下部軌道は早期(1957年)に廃止され、上部軌道に当たるこちらのみが残された。
2013年07月吉日 生野鉱山軌道:生野銀山は兵庫県朝来市に開かれていた、戦国時代から近代にかけての日本有数の銀山。明治新政府が日本の鉱業(鉱山・製鉱所)の近代化を確立するために、最初に官営(直轄)鉱山とした模範鉱山である。明治22年(1889年)には生野鉱山と佐渡鉱山が皇室財産に移され、宮内省御料局の所管となった。明治29年(1896年)には三菱合資会社に払い下げられ、以後、三菱の経営で国内有数の大鉱山として稼働してきたが、昭和48年(1973年)に閉山した。
2013年05月吉日
2012年09月吉日
神岡軌道は、かつて富山県上新川郡大沢野町(現・富山市)の笹津駅(後に猪谷駅に変更)と岐阜県吉城郡神岡町(現・飛騨市)の神岡駅を、神通川沿いに結んでいた鉄道路線(軽便鉄道)の通称である。法的な種別は、専用鉄道から軌道法による軌道、地方鉄道法による地方鉄道と推移した。昭和に入ると、現在の高山本線の元となる鉄道省飛越線の工事が進展するようになった。
2013年04月吉日 日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)は、かつて福島県耶麻郡猪苗代町の川桁駅と沼尻駅とを結んでいた鉄道路線およびその運営会社。東京証券取引所に上場していた。1969年(昭和44年)に全線が廃止された。一般には沼尻鉄道(ぬまじりてつどう)の名前で呼ばれ、耶麻軌道(やまきどう)という名称でも呼ばれていた。本鉄道は硫黄鉱山から採掘した硫黄鉱石を国鉄磐越西線まで輸送するために敷設された貨物輸送主体の鉄道で、旅客輸送は片手間に行ってたが、硫黄鉱山閉山後は観光鉄道として脱皮を図って旅客輸送で経営を維持しようとするが休止となり、その後廃線になった。
2013年04月吉日 鯛生金山鉱山軌道:鯛生金山(たいおきんざん)は、1898年(明治31年)から1972年(昭和47年)にかけて大分県日田市中津江村鯛生地区(旧日田郡中津江村)にあった金鉱山。鯛生金山は明治時代に発見された金鉱山で、最盛期の1934年(昭和9年)から1938年(昭和13年)にかけては年間産出量が佐渡金山を上回る2.3tに達した。昭和初期の全盛期には、全国から約3,000人の人が集まり、周囲には鉱山町が形成された。
2013年02月吉日 土肥金山(といきんざん)は、静岡県伊豆市の土肥地区にある金の鉱山の跡である。伊豆市の指定史跡になっている。昭和38年(1963年)採掘を中止しついに昭和40年(1965年)本邦有数の金山として君臨した土肥金山は閉山した。閉山までの掘削坑道の総延長は約100km、深さは海面下180mに及ぶ、この間の推定産出量は、金40t、銀400tである。1972年からテーマパークとして一般に公開している。
2012年10月吉日 上田陶石運搬軌道本線:天草陶石が発見されたのは、かなり古く元禄年間に旧高浜村皿山及び旧下津深江村で採掘されていたと伝えられていますが、定かではありません。正徳2(1712)年頃、肥前の製陶業者に天草陶石を供給したのが、製陶原料として使用した始めとされています。天草陶石の採掘は代々上田家の事業として、江戸〜明治中期を経てその間陶石脈の探査開発を行い、明治45(1912)年高浜皿山に馬車軌道並びに自転巻軌道を施設し、本格的な量産体制に入りました。
2012年09月吉日 久根鉱山軌道:久根鉱山は享保16年(約240年前)に開坑されたと伝えられている。明治32年2月古河市兵衛氏が譲受け同35年2月より出鉱、「久根鉱山」で採掘された鉱石は、久根で精錬されていました。そのため、精錬の煙が草木を枯らすなどの鉱害問題が深刻化し、足尾銅山の古河市兵衛が買い取ってからは、鉱石を西鹿島まで運び、そこから鉄道輸送によって足尾に運び、足尾で精錬することにしたのです。
2011年08月吉日 三井串木野鉱山軌道:1906年(明治39年)、採算が悪化していた西山鉱区を買収する形で三井鉱山の進出が始まった。1994年(平成6年)以降、鉱山での採掘は行われていないが、精錬所において他鉱山で産出した鉱石の精錬や産業廃棄物からの貴金属回収を行っている。主な鉱山は、北西から羽島鉱山、荒川鉱山、西山鉱区、芹ヶ野金山、芹場鉱山の順に並んでいる。
2011年08月吉日
2010年08月吉日
薩摩金山蔵では、串木野金山の350年に亘り掘り続けられた総延長120キロメートルにもおよぶ坑道に、甕仕込みと甕貯蔵の蔵を構えております。かつては醤油や味噌のように自家製で造られていたことから、酒作りは女性の仕事でした。金山蔵では、その当時、明治以前の焼酎作りをコンセプトに掲げ、女性の杜氏「女杜氏」を中心に仕込みを行っております。
2011年04月吉日 日豊鉱業武蔵野炭鉱は埼玉県飯能市大字阿須891、あけぼの子供の森公園の隣にあり、亜炭の採掘を行っています。採掘は日本車輌製UDL&トロッコを利用しており、軌間610mm12s/mレールを使用。坑口は2箇所有り、亜炭の搬出する坑口は1箇所、もう一箇所は緊急待避及び通気口。日豊鉱業武蔵野炭鉱は1944年(昭和19年)創業。品質に関しては褐炭同様、石炭化が十分に進んでいないために不純物や水分を多く含み、得られる熱量が小さいことから、製鉄などの工業用途には向かない。
2011年04月吉日 浅野セメント二俣尾駅専用線:青梅鉄道は1908年(大正7年)には二俣尾の雷電山も買収して生産の拡大を図る。この年に浅野セメントも川崎工場を建設して生産の拡大を企図した。そこで浅野セメントは原料確保のために1920年(大正9年)両地域の採掘権を青梅鉄道から買収し、翌年、市内に青梅採掘事務所を設置した。二俣尾駅でそこから北側へ山裾へ回り込む線が専用線跡。1929年に開鉱した梅ヶ平石灰山から索道・インクラインを経て二俣尾から浅野セメント川崎工場へ石灰を輸送した。
2011年04月吉日 青梅鉄道宮ノ平駅専用線:1888年(明治21)福生や羽村・三田の豪農・豪商が青梅鉄道を設立し、日向和田の山林を買収して立川−青梅間の鉄道を開通し(1894年)、1895年(明治28年)から石灰石を採掘し,浅野セメント,鈴木セメント、御料局、王子製薬所などへ供給した。1895年(明治28年)の生産量は2,762tであったが、1904年には50,290t、1914年には177,259tにもなっている。
2011年04月吉日 浅野セメント黒沢専用鉄道:大正7年(1918年)浅野セメント株式会社が黒沢地内より石灰岩が産出される事に着目し、免許を取得し師岡連絡所(東青梅駅の東寄り付近からの分岐)より、青梅第四小学校、根ヶ布天寧寺横を通り黒沢二丁目の峰向石灰山(柳内酒店前)までに専用鉄道を敷設した。黒沢山は1907年(明治40年)に浅野セメントによって買収され、翌年開鉱したが、その翌年には閉鉱。東青梅駅は1932年(昭和7年)10月1日 - 青梅電気鉄道の東青梅停留場として開業。旅客営業のみ。
2011年03月吉日 栃原金山は茨城県久慈郡大子町栃原にある低中温熱水鉱床の鉱山である。約600年前発見され江戸時代に佐竹藩の隠れ金山として採掘されていたが佐竹藩の殿様が秋田に国替えとなり鉱口を塞ぎ鉱山技師共々秋田に行ってしまい眠ったままになっていた。
2011年03月吉日 鬼村鉱山軌道(トロッコ):鬼村の古屋谷では、、慶応年間(1867年)頃より漢方薬として使用され、その後、明治42年(1909年)頃から石膏の採掘(セメントの原料などに利用)が行われていました。最盛期の大正末期(1923年頃)には従業員が100人を超え、品質の高い石膏の産地として県内外から脚光をあびていました。
2011年03月吉日 石見銀山 は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。当時世界の銀の3割を産出したと推定される。大森銀山(おおもりぎんざん)とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)と呼ばれた。石見銀山の間歩群では、「龍源寺間歩」をはじめ、「釜屋間歩」、「新切間歩」、「大久保間歩」、「福神山間歩」、「本間歩」、「新横相間歩」の7つの間歩が国の史跡として登録されています。
2011年03月吉日 石見銀山大久保間歩(間歩番号165)は銀山採掘のために掘られた「間歩」と呼ばれる坑道が500余りある中で一番大きな間歩である。石見銀山(いわみぎんざん)は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。当時世界の銀の3割を産出したと推定される。大森銀山(おおもりぎんざん)とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)と呼ばれた。明治期以降は銅などの鉱物が主に採鉱された。
2011年03月吉日 石見銀山龍源寺間歩(間歩番号500)は銀山採掘のために掘られた「間歩」と呼ばれる坑道が500余りある中で一般公開されている観光化された間歩である。石見銀山(いわみぎんざん)は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。当時世界の銀の3割を産出したと推定される。大森銀山(おおもりぎんざん)とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)と呼ばれた。明治期以降は銅などの鉱物が主に採鉱された。
2011年03月吉日 石見鉱山は以前は黒鉱および黒鉱鉱体に伴う石膏鉱体が採鉱され、近年まではゼオライトが採鉱されていました。石見鉱山に隣接して小規模な鉱脈型鉱床があり、「五十猛の鉛山」として石見銀山の銀製錬に用いた鉛を産出しました。黒鉱型鉱床は亜鉛や鉛、銅、銀などを含む黒色の鉱石(黒鉱)が特徴で、代表的なものとして秋田県の小坂鉱山があります。島根県では出雲市にも鰐淵鉱山などの黒鉱型鉱床があります。 大田市には日本海形成期の火山活動にともなう凝灰岩類(グリーンタフ)が広く分布しています。
2010年12月吉日 宮浦石炭記念公園は1887年(明治20年)開坑の三池炭鉱の主力坑の一つで、約80年にわたり石炭を産出した宮浦坑跡に整備された歴史公園。現存する煙突は、1888年(明治21年)建造、高さ31.2m、上部直径2.9m、基部直径4.3mで、平成10年1月16日に国登録指定文化財(建造物)として登録された。この公園のシンボルである煙突は「炭坑節」に歌われたモデルとも言われている。また大牟田の各竪坑にそびえ立っていた煙突が残されるのもここだけになっています。
2010年12月吉日 三池鉄道(みいけてつどう)は、かつて福岡県大牟田市及び熊本県荒尾市で運行されていた専用鉄道(一時期地方鉄道)の通称である。三井三池炭鉱から採掘された石炭を輸送するために敷設され、保有者は三井鉱山から三井三池港務所、再び三井鉱山、三井石炭鉱業と移った。現在でも一部区間が現存し、三井化学の専用鉄道として使用されている。
2010年12月吉日 住友別子鉱山上部鉄道は標高800メートル以上の地点を、急峻な断崖の等高線にほぼ沿う形で敷設されていた。路線は急カーブが連続し、線路用地は石垣を築き確保されていた。伊予鉄道に続く愛媛県で2番目の鉄道として下部鉄道と共に1893年(明治26年)に開業した。別子銅山で採掘された鉱石は、角石原駅で積み込まれ、途中交換駅の一本松駅を経由し、石ケ山丈駅で降ろされ、索道で下部鉄道の端出場駅に輸送された後、港へ運搬されていた。
2010年12月吉日 別子銅山は、愛媛県新居浜市の山麓部にあった銅山。1690年(元禄3年)に発見され、翌年から1973年(昭和48年)までに約280年間に70万トンを産出し、日本の貿易や近代化に寄与した。坑道は全長700キロメートル、また最深部は海抜マイナス1,000メートルにもおよび、日本で人間が到達した最深部である。東平(とうなる)地区は、1916年(大正5年)から1930年(昭和5年)まで別子銅山採鉱本部が置かれていた。
2010年09月吉日 佐渡金山-1 -2 -3は、新潟県佐渡市の佐渡島にある金山である。鉱石は主に銀黒(ぎんぐろ)と呼ばれる石英中に輝銀鉱および自然金の微粒子が脈状に存在するものであった。1601年に金脈が発見されて以来、江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。江戸時代初期すなわち慶長から寛永年間にかけての最盛期には金が1年間に400kg、銀が40トン以上採掘される日本最大の金山であり、産銀についても日本有数のものであり江戸幕府による慶長金銀の材料を供給する重要な鉱山であった。
2010年09月吉日 羽黒軌道:「羽黒は石を打つノミの音で夜が明ける」 岩瀬町の石の歴史は江戸時代からあるが、明治35年本格的に企業化されたのである。稲田石では、昭和の初め頃羽黒駅から(地名で)稲・池亀迄レールがひかれ、山で採掘された石を羽黒駅まで無蓋車であるトロッコで運ばれた。その当時トロッコは最も進んだ輸送手段であった。 駅からは馬そりで各作業場に運ばるが搬送中に橋の一部がその重さに耐えきれず破損し一時通行止めになった一波乱もあったそうである。明治37年4月に花崗岩の輸送のため貨物取扱駅として羽黒駅が誕生したことにより盛期を向かえた。
2010年09月吉日 稲田人車軌道-1 -2 -3は稲田駅周辺で産する御影石(学名花崗岩)を採石場から駅まで運搬する為のトロッコが初めて運転されたのは、明治29年(1896年)であった。東京で石材問屋を経営していた鍋島彦七郎は、稲田に進出し、無尽蔵に存在する御影石を消費地に運搬するために、採掘場のある堂峰・西沢と稲田駅間に2km余に及ぶトロッコ軌道を敷設した。明治の末期から大正初期にかけて、大郷戸方面の開発が急速に進み、中島喜三郎が中心になり、地元の協力を得て、大正9年(1920年)12月、茨城軌道株式会社を起こして営業を開始した。
2010年09月吉日 岩間人車軌道は難台山の花崗岩採掘が明治20年頃に採掘が始り、難台山以北は加波山、足尾に連なる黒雲母花崗岩(深成岩)、以南はケイ足層群(古生層)に二分され一部吾国山以北に東南に走る古生界がみられます。難台山の花崗岩は地元の人が国会議事堂にも使われていると言っていました。常磐線(旧水戸鉄道・日本鉄道)が開通すると、東京の日本石材株式会社(現在の日本石材株式会社とは違う様だ)が、難台山から岩間駅までトロッコ軌道を敷設して難台山の花崗岩採掘に乗り出した。
2010年07月吉日 雄別鉄道は、北海道釧路支庁管内釧路市の根室本線釧路駅から、同管内阿寒郡阿寒町(現・釧路市阿寒町)の雄別炭山駅までを結んでいた鉄道路線などを運営していた炭鉱鉄道会社。東証一部上場企業であった雄別炭礦の子会社にあたり、三菱グループに属していた。親会社の雄別炭礦は、当時の炭鉱会社の中では多角経営の進んだ会社という評価がなされていたが、1969年、茂尻鉱にて人身事故を起こしたことで茂尻鉱が廃坑に追い込まれた。
2010年07月吉日 鴻紋軌道は、かつて北海道網走支庁管内の紋別郡紋別町に存在した軽便鉄道路線である。鴻之舞軌道(こうのまいきどう)と呼ばれる場合もある。鴻之舞鉱山拡張に必要な資材の運搬や、人口が1万3千人を超す鴻之舞地区住人の生活物資の運搬を目的として、1940年(昭和15年)10月に着工された。当初は1942年(昭和17年)に完成予定であったが、元紋別地区にある沢の埋め立てが難工事となって、鴻之舞地区から大量の石を運搬したのが影響して工期が延びていた。
2010年06月吉日 東武大谷線は、かつて栃木県にあった東武鉄道の軌道・鉄道路線である。宇都宮市内一円に軌道を敷設していた、宇都宮石材軌道という人車軌道および軽便鉄道が前身である。宇都宮の大谷地区で採掘される石材(大谷石)の輸送を目的に、1895年に測量開始、1897年に宇都宮西原町 - 大谷荒針間を宇都宮軌道運輸として開業させる。翌年には、立岩・弁天山への延伸も図られたのであるが、西原町に集まってくる石材の出荷法が問題となり、1903年に日本鉄道の鶴田駅(今は日光線)まで延伸した。
2010年04月吉日 東武会沢線は石灰石、ドロマイト等の運搬用に設けられた、佐野線の終点葛生駅から第三会沢駅に至る東武鉄道の貨物線である。東武会沢線の貨物線が葛生駅まで石灰、セメント、ドロマイトを輸送していた。セメントは東武伊勢崎線経由で業平橋駅まで輸送された。貨物輸送が廃止された後はその設備のほとんどが撤去されているが構内は広く、かつての貨物線の名残をとどめている。葛生駅から先にも路線跡が続き、架線柱や腕木式信号機も残っている。
2010年04月吉日 日鉄鉱業羽鶴専用鉄道
日鉄鉱業株式会社(にってつこうぎょう、英文表記:Nittetsu Mining CO., Ltd.)は、東京都に本社を置く石灰石などの採掘を行っている企業で葛生鉱業所の住所は 栃木県佐野市仙波町1599。 1951年(昭和26年)10月に葛生鉱業所を開設。 東武佐野線の終点「葛生(くずう)駅」はかつて貨物の発着で賑わう大きな駅で、かつてはこの葛生駅から日鉄鉱業葛生鉱業所 羽鶴専用線の貨物線が延びていた。1986年に貨物扱いが中止され廃線になた。
2010年02月吉日 日立鉱山電車専用線
日立鉱山(ひたちこうざん)は茨城県日立市にあった銅山(鉱山)。旧名赤沢銅山。1905年に小坂鉱山の事務所長だった久原房之助が、鉱山を手中に入れたところから急激な発展を遂げる。日立鉱山には日立鉱山電車専用線という軽便鉄道が走っていた。明治41年に日立鉱山電車専用線営業開始。現在の日立駅前の大通りと銀座通りの中間あたりを通って国道6号線を横断し、芝内経由で大雄院(だいおういん)まで専用線が延びていた。
2010年02月吉日 高萩炭礦櫛形鉱専用線
高萩炭礦櫛形鉱は常盤炭田最南の炭鉱で福島県双葉郡富岡町から茨城県多賀郡十王町(現在は日立市に合併)まで南北に大きく広がる常盤炭田であるが、十王町の「櫛形炭鉱」は、常磐炭田の最南部に位置した。この櫛形地区に開発の手が入ったのは昭和12年(1937年)と遅かった。昭和17年(1942年)年には東邦炭鉱葛形鉱となり、更に昭和20年(1945年)には合併により高萩炭鉱葛形鉱となった。1973年に閉山。これで常磐地域での炭鉱に終止符が打たれた。
2010年02月吉日 常磐炭鉱中郷鉱曳索軌道
大正06年(1917年):茨城無煙炭鉱第二坑から南中郷村日棚の茨城無煙炭鉱第三坑専用軌道に曳索軌道を接続し、南中郷駅に石炭を搬出する。全長1.5q 軌間508mm。大正15年(1926年):茨城無煙炭鉱第二坑から大倉鉱業椛謫坑。昭和09年(1934年):大倉鉱業椛謫坑から入山採炭樺郷無煙炭鉱第二坑。昭和16年(1941年):入山採炭樺郷無煙炭鉱第二坑から中郷無煙炭鉱椛譏Z坑。 第二坑から第六坑へ坑口移動、同時に曳索軌道を延長。全長1.8q。
2010年02月吉日 茨城無煙炭鉱曳索軌道
開設 明治44年(1911年)
廃止 大正06年(191年7)
南中郷村石岡〜南中郷村大塚鶴巻  全長 2.35q
茨城無煙炭鉱株式会社は南中郷村(現北茨城市)石岡地区に第二坑を開山運炭用の軌道建設した。第二坑山元から同村大塚地区弦巻までをほぼ一直線に結ぶ曳索軌道を敷設し山口炭鉱専用軌道に接続した。
2010年02月吉日 山口炭鉱専用軌道
開設 昭和21年(1946年)02月
廃止 昭和33年(1958年)02月
全長 常磐線磯原駅〜北茨城市磯原町大塚字松下(山口炭鉱)4.28q
2010年02月吉日 重内炭鉱専用軌道
開設 昭和20年(1945年)年12月28日
廃止 昭和49年(1974年)年06月29日
全長 常磐線磯原駅〜北茨城市磯原町大塚字烏子
(重内炭鉱)4.53q
鉱業所名:重内炭砿
鉱業権者名:重内鉱業   
地区名:磯原   操業開始:昭和14年
租鉱権者 32年度出炭:116.6(千トン)
常用労務者数:854(人)
2010年01月吉日 常磐炭鉱専用鉄道神ノ山鉱線・関本鉱線
神永喜八、片寄平蔵らにより発見された明治時代初頭から、福島・茨城両県の海岸線に面する丘陵地帯にかけて大規模な炭鉱開発が行われた。これは、首都圏に最も近い炭鉱として注目されたためである。しかし硫黄分を多く含有し、純度の低い炭質(低品位炭)という不利な条件があり、さらに地層が激しい褶曲を受けているため、石炭層を求めて地下へとひたすら掘り下げる、高い掘削技術を要する炭鉱であった。各鉱は採算が次第に悪化。
2010年01月吉日 秩父鉄道武甲線
貨物輸送は秩父市にある武甲山は良質の石灰石を産出するため、これを運ぶための貨物輸送も盛んである。その取扱高は日本の私鉄の中でも上位である。貨物列車は三ヶ尻線熊谷貨物ターミナル - 武川 - 秩父 - 影森間で運行されている。但し日本貨物鉄道(JR貨物)との連絡運輸区間は武州原谷までとなっている。1918年(大正7年)9月16日 - 武甲線 影森〜武甲間開業。貨物営業のみ。 1984年(昭和59年)2月1日 - 武甲線 影森〜武甲間廃止。
三峰口駅より先の廃線区間
2010年01月吉日 常磐炭鉱中郷鉱専用線
南中郷駅より駅西側にあった常磐炭鉱中郷鉱まで3.9kmの専用線が伸びており、炭鉱で産出された石炭の輸送を行っていた。神永喜八、片寄平蔵らにより発見された明治時代初頭から、福島・茨城両県の海岸線に面する丘陵地帯にかけて大規模な炭鉱開発が行われた。これは、首都圏に最も近い炭鉱として注目されたためである。しかし硫黄分を多く含有し、純度の低い炭質(低品位炭)という不利な条件があり、さらに地層が激しい褶曲を受けているため、石炭層を求めて地下へとひたすら掘り下げる、高い掘削技術を要する炭鉱であった。
2010年01月吉日 高萩炭鉱専用線
明治、大正時代から、昭和40年代まで、現在の高萩市は、炭鉱の町として栄え、有名であった。特に、明治30年に今の常磐線・高萩駅が開設されてからは、毎日、多くの石炭が貨車に積まれて、京浜工業地帯へ運ばれ、日本のエネルギー資源の一翼を担っていた。市内で炭鉱を掘っていた所は、高萩炭鉱(和野、秋山、干代田地区)、向洋炭鉱(島名地区)、望海炭鉱(関口、望海地区)があった。1946年(昭和20) 高萩炭鉱株式会社東邦炭鉱櫛形炭鉱を買収。
2010年01月吉日 好間炭鉱専用鉄道好間線
明治37年(1904年) 白井遠平が設立した好間炭鉱は、好間村(当時)の北好間地区の籬(まがき)に坑口を開いた。明治39年(1906年)好間炭鉱株式会社を発足。好間炭鉱は蒸気巻上げ機を導入し綴駅(内郷駅)までの専用線を敷設するなどして近代的炭鉱へと発展する。 大正07年(1918年)好間炭鉱は現古河鉱業に買収され古河鉱業好間炭鉱となる。昭和02年(1927年) 北好間坑から撤退し上好間坑は継続。昭和39年、古河好間鉱は古河鉱業より分離され、好間炭鉱株式会社として再出発したが昭和44年(1969年) 上好間坑も閉山
2010年01月吉日 常磐炭鉱専用鉄道高倉線
常磐炭鉱専用鉄道内郷線
入山採炭が石炭積出しのため専用鉄道(日本鐵道株式会社海岸線)綴駅(現常磐線・内郷駅)高倉間4.02qの使用を始めたのが明治30年(1897年)11月10日であった。最後は矢之倉礦業が使用していたが、昭和38年(1963年)3月閉山により同年11月9日廃止され軌道跡地の大部分は市道になった。
2010年01月吉日 磐城炭礦軌道線(いわきたんこうきどうせん)は、現在福島県いわき市となっている、石城郡湯本町と小名浜町を結んでいた鉄道路線(軽便鉄道・軌道線)。磐城炭礦株式会社(現在の常磐興産株式会社)が運営していた。常磐炭田で採掘された石炭を小名浜港へ輸送するために敷設された。
2010年01月吉日 常磐炭鉱専用鉄道鹿島線
常磐炭鉱専用鉄道小野田線
常磐炭鉱専用鉄道日渡線
常磐炭鉱専用鉄道向田線
神永喜八、片寄平蔵らにより発見された明治時代初頭から、福島・茨城両県の海岸線に面する丘陵地帯にかけて大規模な炭鉱開発が行われた。これは、首都圏に最も近い炭鉱として注目されたためである。しかし硫黄分を多く含有し、純度の低い炭質(低品位炭)という不利な条件があり、さらに地層が激しい褶曲を受けているため、石炭層を求めて地下へとひたすら掘り下げる、高い掘削技術を要する炭鉱であった。
2009年12月吉日 足尾銅山観光がオープンしたのは、1980年(昭和55年)4月。400年続いた銅山の閉山を機に、その内部を開放し、そこで働いた人々の姿をとおして、銅山の歴史や仕組みを知ることができます。平成13年4月14日、トロッコも新しく生まれ変わり、リニューアルオープン致しました。全長700mの坑内は400年間の歴史がそのまま生きている博物館。足尾銅山観光は“日本一の鉱都”とよばれた足尾銅山の再現をはかって始められた国内最大の坑内観光です。
2009年10月吉日 長野原線(太子線)吾妻郡六合村の群馬鉄山(1963年閉山)で採掘された鉄鉱石の輸送のための路線として1945年、渋川 - 長野原(現長野原草津口)間が長野原線として開業。長野原から群馬鉄山のある太子(おおし)までは、日本鋼管社の専用線が敷設された。当初は貨物専用線として開業したが、1946年までに渋川 - 長野原間の旅客営業を順次開始した。群馬鉄山専用線(長野原 - 太子間)は、1952年に国鉄に移管され、1954年に旅客営業を開始した。
2009年09月吉日 夕張鉄道は、北海道炭礦汽船(北炭。以前の北海道炭礦鉄道)が同社の事業用資材や石炭を輸送する目的で大正10年(1921年)に設立された。北海道石狩支庁管内江別市の函館本線野幌駅から、空知支庁管内夕張郡栗山町の室蘭本線栗山駅、同支庁管内夕張市の夕張線(現・石勝線)鹿ノ谷駅を経て同市の夕張本町駅までを結んでいた。バス路線の整備やマイカーの普及、閉山による人口の減少に伴い旅客輸送も激減し、昭和46年(1971年)11月には鹿ノ谷 - 夕張本町間の鉄道営業と鹿ノ谷 - 栗山間の旅客営業を廃止した。
2009年07月吉日 尺別鉄道線:雄別鉄道の親会社である雄別炭礦が運営していた。機関庫は新尺別に置かれ、C12形蒸気機関車を3両、客車4両、貨車11両を保有していた。 もとは雄別炭礦鉄道が炭鉱と鉄道の運営を行っていたが、1959年に鉄道部門を分離(尺別線は雄別炭礦にて継続)して雄別炭礦株式会社と、雄別鉄道株式会社が発足した。その後、倒産直前の1970年2月に雄別炭礦に吸収合併されている。
2009年07月吉日 明治鉱業専用線(篠栗−久山)
 福岡県糟屋郡篠栗町に明治鉱業株式会社の高田炭坑が有った。篠栗駅から極楽池・高橋池の間を抜け久山町まで明治鉱業の専用線が走っていた。極楽池から高橋池の間には隧道が有ったようだが、私が調べた限りでは現在は現存しない。 明治鉱業株式会社(1919年4月1日〜1969年会社解散)は、安川敬一郎が創業した九州・北海道に鉱山を持つ炭坑会社で、戦時中は石炭大手8社の一員として日本のエネルギー界に貢献しました。
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