更新日時 2009年06月07日

沖縄県 首里城
 首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、沖縄県那覇市首里にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあった城。
 琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城(グスク)であった。戦前は正殿などが国宝であったが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。その後2000年(平成12年)12月、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。
 首里城の創建年代は明らかではない。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。 尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられることはなかった。
 史書で記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失しており、そのたびに再建されてきた。その度に木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり、将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている。一度目の焼失は1453年(享徳2年)に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)であり、城内は完全に破壊された。二度目の消失は1660年(万治3年)のことであり再建に11年の年月を要した。しかし1709年(宝永6年)に三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年(正徳2年)に薩摩藩から2万本近い原木を提供された。現在見る首里城の建築は、三度目の火災の後再建された1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている。
 1879年(明治12年)の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、日本陸軍の第6師団(熊本)の軍営として、その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ、学校などとして利用された。
 王宮でなくなった首里城は急速に荒廃が進み、老朽化が激しく崩壊寸前の状態になった。既に門のいくつかは取り壊されており、正殿の取り壊しも検討された。しかし、伊東忠太、鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により保存が決定され、昭和初期(1928年(昭和3年)〜1933年(昭和8年))に正殿の改修工事が行われて国宝に指定され、県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られた。太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り総司令部を置いたこともあり、1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失したとされる。(今も、龍潭池には、地下壕の入り口や弾痕などが確認できる。)さらに日米両軍の激しい戦闘で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、中の財宝は全て米軍に略奪された。
 首里城公園:首里城正殿を中心として、守礼門や園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)、円覚寺跡などの文化財からなる国営の公園。有料区域と無料区域に分かれていて、正殿などの見学は有料。那覇市内を一望できる「西のアザナ」は、無料で楽しめる隠れた絶景スポットだ。レストセンター、駐車場も完備され、多くの観光客が訪れる。  旧首里城守礼門:守礼門は首里城第二の坊門でした。16世紀の創建で、その後「守禮之邦(しゅれいのくに)」の四字額が掲げられるようになったと伝えられています。中国の牌楼(やぐらのある門)の流れをくむ装飾建築で、三間入母屋重層の琉球赤瓦の本瓦葺きです。両端の柱間7.94m、高さは上層7.05m、初層5.11m。4本の柱は礎石の上に建ち、脚部を方形にして輝石安山岩の挟石を基礎より建てて組み固め、それぞれが前後に副柱を建てて安定させています。
 園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)は16世紀の琉球王国・尚真王時代の御嶽で、沖縄県那覇市首里真和志町一丁目に位置する。沖縄県指定史跡。
 歓会門:首里城の城郭内に入る第一の正門です。中国皇帝の使者「冊封使」などを歓迎するという意味でこの名がつけられました。「あまへ御門」ともいいます。「あまへ」は沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」を意味しており「歓会」その漢訳です。
 門の両側の一対の獅子像「シーサー」は魔よけの意味をもっています。
 1500年前後創建。沖縄戦(1945年)で消失し、1974年(昭和49年)に復元されました。
 首里城第2の門で、別名を「ひかわ御門(うじょう)」ともいいます。1470年頃の創建といわれています。門の名称は、門前右下にある「龍樋(りゅうひ)」に由来します。構造としては、双壁の門の上に直接櫓をのせた櫓門です。
 戦前、国宝となっていましたが戦災で消失し、今回正殿とともに復元されました。龍樋は、王宮や冊封使の飲料水として利用されました。 瑞泉とはその水をたたえた言葉です。
 漏刻門:門の上の櫓に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計ったといわれています。時刻を測定すると係の役人がここで太鼓をたたき、それを聞いた別の役人が東のアザナと西のアザナおよび右掖門で同時に大鐘を打ちならし、城内および城外に時刻を知らせたのです。 城内より市街を望む
 広福門:中央部の屋根を高くして、門を設けています。屋根は赤瓦葺の入母屋造りで、門の正面に向かって左側が民事・司法関係を取り扱った役所である大与座、右側が寺院や神社、宗廟祭典(祖先を祭る行事)をつかさどる役所、寺社座になっていました。現在の広福門の内部は、左側が奉神門から通じる有料区域に入館するための券売所、右側がトイレとして使われています
琉球のおばさん?(笑)  「神をうやまう」という意味で、正殿のある御庭に入る最後の門です。この門には3つの入り口があり、中央は国王や中国からの使者「冊封使(さっぽうし)」 など限られた身分の高い人だけが通れる門です。それ以外の役人は両側の門から入城しました。御庭を取り囲む建物の一つでもあり、「君誇御門(きみほこりうじょう)」とも呼ばれました。
 首里城は沖縄の歴史・文化を象徴する城であり、首里城の歴史は琉球王国の歴史そのものである。
 首里城は小高い丘の上に立地し、曲線を描く城壁で取り囲まれ、その中に多くの施設が建てられている。いくつもの広場を持ち、また信仰上の聖地も存在する。これらの特徴は、首里城に限られたものではなく、グスクと呼ばれる沖縄の城に共通する特徴であった。他のグスクは首里城との競争に敗れ滅んでしまったが、首里城のみはグスクの特徴を保持しながら新たな発展を遂げたのである。
 番所(ばんどころ)創建1621年〜1627年
 「番所」は正殿を訪れる人々の受付や国王への取り次ぎなどを行っていた所。
 塗装をほどこしたという記録が無いため、白木のまま仕上げている。
 書院・鎖之間庭園(しょいん・さすのまていえん)書院に招かれた冊封使たちは、この庭園の魅力を讃える詩を詠んでおり、その様子を「わだかまった松と蘇鉄とを、奇怪な格好をした石の間に、互いに植えている」と伝えています。沖縄県内のグスクの中で、庭園があったことが分かっているのは首里城だけで、琉球石灰岩をたくみに利用したつくりになっています。
大庫理 ここから民衆に・・・
 大庫理(うふぐい)正殿二階は大庫理と呼ばれ、王家の行催事が行われた。中央には国王が座る場所である「御差床」あり、その後方には「西のみこちゃ」「おせんみこちゃと呼ばれる間がある。
 「おせんみこちゃ」、国王と女官が毎朝、国家の安泰や子孫繁栄を祈願した場所であると言われている。
首里城の模型
 右掖門:首里城(世界遺産・史跡)北殿北側の坂道つきあたりにあるのが右掖門。国王のプライベートな空間、御内原への通用門だった門。
 久慶門:首里城外郭の北側に位置しており、俗に「ほこり御門(うじょう)」と呼ばれ、通用門として主に女性が利用していました。門の造りは中央が石造アーチ門で、その上に木造の櫓があります。この門の両脇には石遣の樋があり、あふれ出た龍樋の水が地下の排水溝を通ってここから外へ流れていきます。
首里城の城壁 円覚寺跡
 天女橋:「15世紀末に朝鮮王から贈られたお経「方冊蔵経(高麗版大蔵経)」を納めるため1502年円鑑池の中にお堂が設けられました。そこへ至る橋が天女橋で当初は観蓮橋と呼ばれていました。1609年薩摩の琉球入りでお堂は破壊され方冊蔵経は失われました。1621年に至って新たにお堂を建て弁財天像をまつり、以後弁財天堂と呼ばれ、橋も天女橋と呼ばれるようになりました。天女橋は中国南部にある橋に似た琉球石灰岩を用いたアーチ橋で全長9.75m、幅2.42m、欄干は細粒砂岩でつくられています。1945年沖縄戦で弁財天堂は破壊され天女橋も大破、1968年弁財天堂は復元され翌年天女橋も修復されました。」
沖縄師範学校跡 高所跡銘板
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