更新日時 2011年11月13日

 渡良瀬川の上流にある、松木川・仁田元(にたもと)川・久蔵(くぞう)川の三つの川の合流点に“足尾ダム”・銅(あかがね)親水公園があります。独特の荒廃裸地化された松木渓谷が眺められる。このダムは、山の土砂の流れを防ぐ砂防ダムです。このダムができる前の足尾の川は、大雨が降ると必ずたくさんの土砂が一緒に流れ、水の色は赤茶けたものになり、川を流れていく大きな石がぶつかり合う音が聞こえてるほどでした。この状態が続けば渡良瀬川下流では大洪水がおきてしまう恐れがありました。そこで特に土砂の流れが多い三つの川が合流するところにダムを明治30(1955)年に完成したのです。このダムが完成してからは、大雨が降っても下流の人々に洪水のない安心感を与えています。平成8年(1996)年、ダムの下流に「銅(あかがね)親水公園」が完成しました。公園内には地域のシンボルとして珍しい人道用斜張橋の「銅(あかがね)橋」が架けられ、「足尾環境学習センター」が建設されるなど、足尾の自然と歴史が“体感”できる「いこいの場所」となっています。
 @閉山直前の本山の様子:本山は、本坑・鷹巣坑の開削に続き、明治17年(1884年)に有木坑(本山坑)が開発されると同時に、鉱業所・選鉱所・製錬所・医局などの施設が置かれ、その後火力発電所や本山小学校の前身となる学校が設けられたりして、名実と共に足尾銅山の中心として大きく発展し、足尾は日本一の銅山になったのです。明治40年に、本山の労働争議をきっかけに、鉱業所が水掛へ移りましたが、本山は北部地域最大の集落に形成されました。しかし、昭和48年(1973年)2月28日に、足尾銅山が閉山となり、本山には、その時138世帯477人(10年前の昭和38年4月には、290世帯1167人)が住んでいましたが、その年の8月に遂に無人となりました。今は、鉱山神社がぽつりと、「つわものどもの夢の跡」を見守っているだけとなりました。
A銅親水公園の日本最大の壁画。
 A銅橋:橋長106.6m、最大支間長73.0m、有効幅4.0m レリーフは、銅山の象徴としてアーノード板と呼ばれる銅板が設置されています。さらに、高欄にも銅風の仕上げを施しました。また、親柱には、松木沢のみで採取できる庚申ミカゲの自然石を用いました。足尾銅山は江戸時代に発見され、明治の製錬所操業で、日本の銅の半分近くを生産する銅山となりました。あかがね橋の高欄には、銅山のシンボルとして、その形から「耳銅」また、電気分解の陽極板という意味で「アーノード板」と呼ばれた粗銅板をモチーフに、足尾町の町獣であるニホンカモシカと町木であるシラカンバを配しました。このレリーフは、アーノード板をほぼ原形に近く復元したものです。
 A足尾砂防ダムと渡良瀬川:昭和25年から5年近くの年月と総工費4億4百万円(建設当時)をかけて、昭和29根に完成しました。渡良瀬川・仁田元川・久蔵川の3つの川の合流点に造られた日本を代表する砂防ダムです。7段に分かれて流れ落ちる姿は、壮大で美しいと評判です。ダムの規模は長さ204m、高さ39m、計画貯砂量500万立米の巨大な重力式コンクリート砂防ダムです。
A銅親水公園の渡良瀬川の風景。
Bパイプの狸穴?
Bパイプの狸穴?で遊ぶ息子。
C水道橋?
C渡良瀬川の風景。
C渡良瀬川の風景。
C渡良瀬川・久蔵川の風景。
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足尾砂防ダムと銅親水公園