更新日時 2020年10月21日

手稲鉱山
 手稲鉱山:明治期より、星置川で砂金がとれたため、手稲山には金が眠っていると噂された。明治20年代半ば、星置で農業を営む鳥谷部弥平治が偶然金脈を発見した。道庁に試掘を申し出、全財産をなげうって明治40年頃まで探したが、よい結果は得られなかった。大正に入り、元道庁の技師石川貞治が鉱業権を取得し、手稲鉱山と命名。一時成功するが、新たな金脈探しに失敗し、一度閉山する。昭和に入り、1928年に広瀬省三郎が鉱業権を得る。現在の手稲駅近くまで鉄索をひき、出鉱量は1934年には約3万4千トンにのぼった。1935年に三菱鉱業(現在の三菱マテリアル)が買収。金・銀・銅・亜鉛・テルルなどを最盛期には月6万トン産出し、一時期は鴻之舞鉱山に次ぐ日本第二位の産出量を成し遂げていた。戦後、荒川鉱業・千歳鉱業などに継承されながら徐々に規模を縮小し、1971年を最後に閉山した。他の銅を産出した鉱山と異なる点として、銅の鉱石鉱物のほとんどが安四面銅鉱や硫砒銅鉱といった硫塩鉱物(英語版)であり、一般的な国内の銅鉱山では黄銅鉱を鉱石鉱物としていた。様々な鉱物を産出するため鉱物収集家には有名な産地として知られている。1939年に手稲石(teineite、CuTeO3・2H2O)、閉山後の1993年に渡辺鉱(watanabeite、Cu4(As,Sb)2S5)、2001年にリシェルスドルフ石(richelsdorfite)といった新鉱物や珍しい鉱物が発見され、世界的にも有名な鉱山である。
@手稲鉱山の選鉱場。
@手稲鉱山の選鉱場。
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A手稲鉱山の選鉱場。
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出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『札幌市』を掲載」