更新日時 2022年07月17日

中瀬鉱山
 中瀬鉱山は、かつて兵庫県養父市中瀬(旧関宮町中瀬)にあった鉱山。中瀬金山とも呼ばれる。近畿地方最大の金山であり、特にアンチモンの産出量は日本一であった。第三紀火山活動に伴う浅熱水性鉱脈鉱床で、金・銀と共に多量のアンチモンを産出した日本の金山としては特異の鉱床の一つ。なかでも金は、富鉱部で数千グラムにも及ぶ美麗な自然金として産出した。中瀬産自然金は現在スミソニアン博物館(国立自然史博物館)に展示されている。明治5年(1872年)に生野銀山、明延鉱山と共に官営となるも稼行せず、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払い下げとなる。その後も経営者を転々とし、昭和10年(1935年)に中瀬鉱業株式会社(現在の日本精鉱株式会社)による経営となった。同社は選鉱場を整備しつつ、坑道の再開発を行い優良な鉱脈を発見したことにより、産金量が大幅に増加した。また、軍需品に不可欠なアンチモンの産出量が全国の80%を占めていたことから昭和18年(1943年)アンチモン重要鉱山に指定され、太平洋戦争期、金鉱山整備令により国内の多数の金鉱山が閉山を余儀なくされる中でも操業を続けた。金の需要の高まりを受けて生産量が増加、昭和26年(1951年)には年間411kg(うち自然金が56kg)の産金量を記録している。また、昭和23年(1948年)にアンチモン製錬所が完成し、アンチモン製品の販売を開始した。最盛期の昭和22年から昭和30年にかけては鉱山関係の従業員数が500人を超えており、多数の社宅が建設され、銭湯や購買施設、倶楽部などが営業していた。昭和40年頃になり鉱脈が枯渇し始め、採算性が悪化したため、昭和44年(1969年)9月をもって閉山、約400年の歴史に幕を閉じた。昭和10年から閉山までの産出量は、金が7,277kg(品位6.5g/t)、銀が38,897kg(品位35.0g/t)、アンチモンが6,041t(品位0.54%)。
@交流施設の中瀬金山関所トロッコ広場の鉱山車両。
@交流施設の中瀬金山関所に展示されているナベトロの写真。
A日本精鉱株式会社。
B日本精鉱株式会社の煙突。
B日本精鉱株式会社の煙突。
C日本精鉱株式会社の排水処理施設。。
D中瀬金山の関係建物?表側の見た目よりかなり崩壊していた。
D中瀬金山の鉱山神社跡。建物内は空だった。
E境界標?
E墓石。
E地図上は道が描かれているが完全な廃道。
F地図上には建物の印が有るが実際には無かった。耕運機が朽ち果てていた。
F排水溝に橋が架かっていたが完全に朽ち落ちている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『養父市』を掲載」