更新日時 2012年08月13日

 標津線厚床支線は、北海道旅客鉄道(JR北海道)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。中標津町の中標津駅で分岐し根室市の厚床駅で根室本線に接続する支線からなっていた。国鉄再建法の施行により第2次特定地方交通線に指定された。JR北海道に承継されたが1989年(平成元年)4月に廃止された。当時は北海道庁などによる殖民軌道が敷設されていたが、輸送力の限度と馬の維持にかかる経費が問題になり、輸送力の増強が求められていた。交通の不便さから開拓地を放棄せざるを得ないものも現れ、深刻の度を増していた。開拓民の度重なる請願により、先述の鉄道敷設法の改正を見た。道路の整備に伴い、沿線にもモータリゼーションが進み旅客営業も低迷した。既に1950年代には、閑散区対策として開発されたレールバスであるキハ03系が投入されている。1968年には赤字83線に選定され、廃止論議が持ち上がった(当時の営業係数は219)。一時は廃止を免れたものの、1970年には営業係数が405に悪化するなど、年々赤字が増えていった。いくつかの駅を直営駅から業務委託駅に転じさせ、経費の圧縮を試みたが焼け石に水であった。1980年に国鉄再建法が成立すると、第2次特定地方交通線に指定されたが、冬季の代替輸送に問題があるとして他の3線(天北線、池北線、名寄本線)とともに一時、廃止承認が留保された。しかし、結局1985年に問題がなくなったとして追加廃止承認され、国鉄分割民営化後の1989年に廃止された(沿線自治体は第三セクターによる鉄路維持を検討していたが、鉄路維持の場合は運営基金が7年で枯渇するという試算があり、バス転換に同意したもの)。
標津線本線廃線探索リンク
標津線厚床支線(廃線)
中標津駅 - 協和駅 - 春別駅 - 平糸駅 - 別海駅 - 奥行臼駅 - 厚床駅
 N中標津町の丸山公園「中標津町郷土館」に展示されているC11209。
N「中標津町郷土館」に展示されている植民軌道地図と植民軌道機関車の写真。
N「中標津町郷土館」に展示されている鉄道用品。
N「中標津町郷土館」に展示されている開拓とその生活に関係する情報地図と資料。
 Q中標津駅(なかしべつえき)は、北海道標津郡中標津町東2条南2丁目にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)標津線の駅である。電報略号はナヘ。1989年(平成元年)4月30日に廃駅となった。駅名の由来はアイヌ語の「シ・ペツ」(大きな川)より。駅の構造は廃止時点では2面3線のプラットホーム(国鉄型配線)を持つ地上駅であった。駅舎は北側(標茶に向かって右)に有った。貨物および荷物取扱い廃止までは、貨物積降場が2箇所有り、1箇所は北側(駅舎側)根室標津方面に有って切欠ホームへ貨物積降線が引かれ、もう一つは南側根室標津方面の貨物ホーム、後のコンテナ取扱い場へ引かれていた。 その他に、根室標津方面は本線左右に2本、標茶方面は南側に1本、計3本の留置線(引き上げ線)が有り、また根室標津方面の本線と南側貨物ホームの間に転車台と車庫へ向かう入出区線が1本有った。取扱い廃止後はこれらの内の南側2本に、新たに車庫が設けられた。
@標津線厚床支線の中標津駅 - 協和駅の廃線跡。谷の部分が廃線跡。
A標津線厚床支線の中標津駅 - 協和駅の廃線跡。
B標津線厚床支線の中標津駅 - 協和駅の廃線跡。
C標津線厚床支線の中標津駅 - 協和駅の廃線跡。
D標津線厚床支線の中標津駅 - 協和駅の廃線跡。
G道道8号線の別海跨線橋。 G跨線橋欄干に表示されている標津線の表示。
G標津線厚床支線の協和駅 - 春別駅の廃線跡。別海跨線橋より。
H標津線厚床支線の協和駅 - 春別駅の廃線跡。黒百合川に架かる標津線厚床支線の橋梁。
 I春別駅(しゅんべつえき)は、北海道野付郡別海町中春別東町にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)標津線の駅である。電報略号はユン。標津線廃線とともに、廃駅となった。駅名の由来はアイヌ語の「シュム・ペツ」(溺れ死ぬ川)との説があるが、詳しくは不明。
 I春別駅の構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有したが、かつては相対式ホーム2面2線を有する列車行き違い可能駅であった。戦後間もない時期までは、駅舎側に島式ホームと駅裏に単式ホームを持つ変則的な相対式ホーム2面2線で、駅舎は西側(中標津に向かって左側)にあって、島式ホームは厚床寄りにずれて設置され、駅舎から島式ホームの中標津側端及び相対ホームの中央が構内踏切で連絡していた。開業後間もない1938年の時刻表によれば、列車交換も行われていた。ただし遅くとも1944年以降の時刻表からは列車交換は別海駅(西別駅)に変更されている。島式ホームの駅舎側は貨物用の副本線として使用されていた。駅裏は春別川の支流が蛇行する湿地帯で、広い敷地が確保出来なかったためか、代わりに駅舎横の中標津側に非常に長い貨物ホームと広い三角状のストックヤードがあり、副本線から分岐した引込み線が伸びていた。ストックヤードには主に多くの木材が野積みされていた様である。 また厚床側には1936年(昭和11年)から1949年(昭和24年)まで、別海町上春別まで伸びて殖民軌道西別線と接続する、殖民軌道春別線(改名前は中春別線)の屋根のある大きな貨物取扱所が設置されていた。その後貨物の取扱が減り、殖民軌道も廃止されると、駅舎側の副本線は厚床寄りの分岐が外されて駅舎前までの引込み線にされ、代わりに駅裏に小さなストックヤードが設けられて相対ホーム側本線が貨物用の副本線扱いに変更された。貨物及び荷物取扱い廃止後は、副本線及び引込み線が撤去され、島状の単式ホーム1面1線に棒線化された。中春別ヘルスパークとなっている。すでに廃止から20年以上が経つが、北海道道363号尾岱沼港春別停車場線にその名をとどめている。
J標津線厚床支線の春別駅 - 平糸駅の廃線跡。春別川橋梁。
K標津線厚床支線の春別駅 - 平糸駅の廃線跡。
 L平糸駅(ひらいとえき)は、北海道野付郡別海町別海にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)標津線の駅である。1989年、標津線の廃線に伴い廃駅となった。駅名の由来はアイヌ語の「ピラ・エトゥ」(崖の先)より。
 L平糸駅の構造は単式ホーム1面1線を有する無人駅であった。ホームは鉄骨製コンクリート床の簡易型で、西側(中標津に向かって左側)に有った。また、中標津側に有ったホームへの階段近くには待合室が置かれていた。
 M別海駅(べっかいえき)は、北海道野付郡別海町別海旭町にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)標津線の駅である。電報略号はヘカ。標津線の廃線とともに、廃駅となった。駅名の由来はアイヌ語の「ペッ・カイエ」(川が折れるところ)に由来する。
 M別海駅の構造は貨物及び荷物取扱い廃止までは、駅舎に接する単式ホームと島式ホームからなる国鉄型配線の2面3線を有する列車行き違い可能駅であった。このうち島式ホームの外側の線は副本線として主に貨物の留置き、あるいは構内東側からの貨物の積降用に使用された。駅舎は西側(中標津に向かって左側)にあり、駅舎横の中標津側には貨物積降場が設けられ、中標津側から駅舎横まで貨物積降線が1本引き込まれていた。このため駅舎前のホームは厚床寄り、島式ホームは中標津寄りにずれて置かれ、駅舎側ホームの駅舎正面から島式ホームの厚床側端へ線路を横切る形で連絡通路があった。貨物及び荷物取扱い廃止後は副本線と貨物積降線が撤去され、廃線になるまで相対ホーム2面2線の列車行き違い可能駅であった。駅の近くには、この線が完成する以前の1929年(昭和4年)から1956年(昭和31年)まで、最盛期の1939年(昭和14年)から1949年(昭和24年)には別海町上春別の春日停車場を経て同線本線の西春別駅前(新西春別停車場)まで繋がる、殖民軌道西別線の停車場が置かれていた。
N標津線厚床支線の別海駅 - 奥行臼駅の廃線跡。西別川橋梁。遊歩道として整備されている。
N標津線厚床支線の別海駅 - 奥行臼駅の廃線跡。西別川橋梁。
O標津線厚床支線の別海駅 - 奥行臼駅の廃線跡。
P標津線厚床支線の別海駅 - 奥行臼駅の廃線跡。
Q標津線厚床支線の別海駅 - 奥行臼駅の廃線跡。築堤したの暗渠。
 R奥行臼駅(おくゆきうすえき)は、北海道野付郡別海町奥行にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)標津線の駅である。電報略号はオユ。1989年、標津線の廃線とともに、廃駅となった。かつては別海村営軌道が当駅で接続していた。駅名の由来はアイヌ語の「ウコイキ・ウス」(戦があったところ)の意。この地で根室ポロモシリのアイヌと、厚岸のアイヌが戦をしたからという。
 R奥行臼駅の構造は貨物及び荷物取扱い廃止までは、島状の単式ホーム1面1線と、駅舎とホームの間に貨物積降線1本、及びホーム外側に厚床側から引き入れた留置線を有した。駅舎は西側(中標津に向かって左側)にあって地面に直接立てられ、ホーム中央の駅舎側に設けられた階段へ、線路を横切る形で連絡した。駅舎横の中標津寄りにはホーム状の貨物積降場が設けられていた。貨物及び荷物取扱い廃止後は貨物積降線が撤去され、廃線まで本線と留置線の構造であった。 (現在遺構に立てられている看板に書かれた「貨物引込線」とは、駅舎とホーム間の貨物積降線の事である。)1963年から1971年まで、別海町上風連まで繋がる殖民軌道風連線(別海村営軌道)の停車場と、そこから駅前を横切って当駅の貨物積降場まで伸びる貨物用線があった。
R奥行臼駅駅舎内。 Rイベント用に軌道自転車が有る。
R貨物ホームの先には、春別駅跡から移築した職員用風呂場が設置された。
R腕木式信号機が残る。
 R別海村営軌道(べっかいそんえいきどう)は、かつて北海道別海町(当時は別海村)にあった簡易軌道。もともとは厚床駅から中標津に至る馬の牽引(馬力)による殖民軌道の路線で、1933年に標津線開業で廃止となった際、支線として残存したのがこの路線である。戦後も長らく馬力に頼っていたが、1960年から北海道開発局により、機関車および自走客車を導入するための軌道強化を行い、1963年に完成した(この時導入された自走客車は液体式変速機と温風暖房を備えたボギー式の優秀車であった)。その際、接続地点を厚床駅から標津線奥行臼駅に変更、奥行臼 - 上風蓮を開業している。戦後、新たに線路を敷設した数少ない殖民軌道であった。末期には他の簡易軌道と同様に牛乳輸送も行われていたが、急速な道路整備に伴い、別海で町制がしかれる前年の1971年に廃線となった。
 R釧路製作所製8t自走客車:自走客車とは北海道開発局独自の用語で、気動車(レールバス)のことをいう。当線には釧路製作所製、泰和車両工業製の2両の自走客車が在籍した。保存車両は昭和38年(1963年)11月に釧路製作所で製造(形式KSC-8 製番No.304)され、エンジンはバス用の日野DS22を搭載、定員は60名、液体式変速機と温風暖房を備えたボギー式の優秀車となっている。乗車券によると当線には奥行臼、奥行第一、奥行第二、奥行第三、富山、1号、2号、学校前、4号、5号、7号、上風蓮の計12ヶ所の停留場があったといい、昭和46年(1971年)の廃止まで、もう1両の自走客車と共に通学などの沿線住民の足となり活躍した。
R釧路製作所製自走客車車内。 R加藤製作所製B型ディーゼル機関車。
R加藤製作所製B型ディーゼル機関車運転室。 R三菱製のKE-21ディーゼルエンジン。
 R加藤製作所製B型ディーゼル機関車とボギー式ミルクゴンドラ貨車。1962年(昭和37年)6月加藤製作所製6tディーゼル機関車(製番62176)エンジンはトラック用の三菱ふそうKE-21を搭載。加藤製の機関車としては最後期の製品。もう1両の内燃機関車(釧路製作所製6t)と共に主にミルクゴンドラ車やミルクタンク車を牽引して活躍したが、一般の無蓋貨車や有蓋貨車も牽引し沿線農家の生産資材や生活物資の輸送に活躍した。各農家から集められた集乳缶を集乳工場に運ぶための2軸ボギー木製無蓋貨車で、自走客車と同じ釧路製作所製。集乳缶を二段積みにして内燃機関車や自走客車に牽引され輸送された。集乳缶の輸送は一般の無蓋貨車や有蓋貨車でも行われたが、当線にはステンレスタンク車も2両導入された。上風蓮に集乳工場が設置されタンク車へのミルク積み込みが行われ当線により奥行臼まで輸送されたが、加工工場が線路から離れていたため、タンクをクレーン設備でそのままトラックに積み替えるコンテナ方式が試みられた。現在では農協が事業主体となって各酪農家にバルククーラー(牛乳冷却装置)を導入。この導入に伴い、従来の集乳缶による牛乳輸送は廃止され、タンクローリー車による集乳輸送へと切り換えられました。
R転車台跡が残る。奥に見えている建物は機関庫跡。
S標津線厚床支線の奥行臼駅 - 厚床駅の廃線跡。風蓮川橋梁。
@標津線厚床支線の奥行臼駅 - 厚床駅の廃線跡。国道44号線の厚床跨線橋より撮影。
A標津線厚床支線の奥行臼駅 - 厚床駅の廃線跡。
 B厚床駅(あっとこえき)は、北海道根室市厚床にある北海道旅客鉄道(JR北海道)根室本線(花咲線)の駅である。電報略号はアト。かつては標津線が分岐していたが、1989年に廃止、バス転換された。2000年には青春18きっぷ(2000年夏)ポスターの撮影地に抜擢された。駅名の由来は駅名はアイヌ語の地名に由来する。その意味については「アッ・トゥク・ト(オヒョウニレの伸びている沼)」とする説がある。
 B厚床駅構造は2面2線のホームを有する地上駅。無人駅。ホーム中央に構内踏切がある。上下列車とも駅舎側の1番のりばを使用し、当駅にて列車交換がある場合のみ釧路方面行上り列車が2番のりばを使用する。かつては3番のりばが存在し、標津線の列車が発着していた。現在の駅舎は1989年(平成元年)の標津線廃止後にバス待合所兼用として建て替えられたものであり、窓口は根室交通厚床案内所として営業する。標津線廃止と同時の簡易委託化によりJR乗車券の発売も行っていたが、現在はバス乗車券のみ発売する。
B旧標津線記念看板。
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