更新日時 2014年10月03日

廃線探索 寿都鉄道
 寿都鉄道(すっつてつどう)は、北海道寿都郡黒松内町の黒松内駅から同郡寿都町の寿都駅を結んでいた鉄道路線、およびそれを運営していた鉄道会社。寿都町は、ニシン漁のおかげで明治の頃からにぎわった町であった。そのため、町に函館 - 小樽間鉄道(函館本線)に連絡する支線を敷設して欲しいという要望があり、ことあるごとに関係機関に要請が行われていた。しかし、鉄道敷設に必要な国会の議決が早急には得られなかったため、民間で設立した後に政府に買い上げてもらうこととした。1918年2月13日付けで鉄道免許状が下付され、同年8月20日に、寿都で獲れるニシンや鉱産物の輸送等を目的として「壽都鐵道株式會社」が設立された。資本金は50万円であった。機関車などの車両は国有鉄道から払下げを受けることになった。1968年に豪雨による河川増水で路盤が流出し、同年8月14日に運行休止に追い込まれた。休止中の路線は1972年5月11日付けでに正式に廃止許可となり、会社も清算されることとなった。
寿都鉄道(廃線)
黒松内駅 - 中の川駅 - 湯別駅 - 樽岸駅 - 寿都駅
 @黒松内駅(くろまつないえき)は、北海道寿都郡黒松内町字黒松内にある北海道旅客鉄道(JR北海道)函館本線の駅である。かつては特急「北海」、急行「ニセコ」などが停車していた。駅番号はS30。電報略号はマツ。駅名の由来はアイヌ語の「クル・マッ・ナイ」(大和民族の女がいる沢)より。江戸時代、北海道に渡来していた和人・大和民族は大抵が男性で、女性は大変に珍しかった。それゆえの地名である。
 @黒松内駅構造は単式ホーム・島式ホーム混合の2面3線で、単式ホームに接して駅舎のある地上駅である。当駅は現在無人駅となっている。長万部駅管理。 以前は社員配置駅(長万部駅所属黒松内在勤)で、「青春18きっぷ」常備券、常備乗車券、出札補充券、料金補充券、硬券入場券を取り扱っていたが、2007年(平成19年)3月31日をもって窓口営業を終了した。1968年(昭和43年)8月14日寿都鉄道線休止。1972年(昭和47年)5月11日寿都鉄道線廃止許可。
A寿都鉄道の黒松内駅 - 中の川駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用されている。
B寿都鉄道の黒松内駅 - 中の川駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用されている。
C寿都鉄道の黒松内駅 - 中の川駅間の廃線跡。廃線跡はこの先畑側へ。
D寿都鉄道の黒松内駅 - 中の川駅間の廃線跡。
E寿都鉄道の黒松内駅 - 中の川駅間の廃線跡。
 F中の川駅(なかのがわえき)は、かつて北海道寿都郡黒松内町に存在した寿都鉄道の駅(廃駅)である。1920年(大正9年)10月24日に開業する。その後、寿都鉄道の駅として発展する。寿都鉄道の線路の路盤が弱いため、よく運転休止になる。昭和30年代ごろより、補助金が打ち切られ、寿都鉄道の斜陽と運命を共にすることとなる。1967年(昭和42年)には豪雨での朱太川増水による路盤流出や、同年11月頃の積雪による運行取り止めなどにより、1968年(昭和43年)8月14日に鉄道営業休止となる。その後、営業再開されず、1972年(昭和47年)5月11日に、寿都鉄道が廃業したのを受けて、完全に廃駅となる。
G寿都鉄道の中の川駅 - 湯別駅間の廃線跡。農道に転用。
H寿都鉄道の中の川駅 - 湯別駅間の廃線跡。
I寿都鉄道の中の川駅 - 湯別駅間の廃線跡。ここから農道に転用。
J寿都鉄道の中の川駅 - 湯別駅間の廃線跡。農道に転用。
K寿都鉄道の中の川駅 - 湯別駅間の廃線跡。この先は舗装道路に転用。
L寿都鉄道の中の川駅 - 湯別駅間の廃線跡。築堤が残る。
 M湯別駅(ゆべつえき)は、かつて北海道寿都郡寿都町に存在した寿都鉄道の駅(廃駅)である。1920年(大正9年)10月24日に開業する。その後、寿都鉄道の駅として発展する。寿都鉄道の線路の路盤が弱いため、よく運転休止になる。昭和30年代ごろより、補助金が打ち切られ、寿都鉄道の斜陽と運命を共にすることとなる。1967年(昭和42年)には豪雨での朱太川増水による路盤流出や、同年11月頃の積雪による運行取り止めなどにより、1968年(昭和43年)8月14日に鉄道営業休止となる。その後、営業再開されず、1972年(昭和47年)5月11日に、寿都鉄道が廃業したのを受けて、完全に廃駅となる。駅跡地は湯別生活改善センターとなっている。
N寿都鉄道の湯別駅 - 樽岸駅間の廃線跡。
O寿都鉄道の湯別駅 - 樽岸駅間の廃線跡。
P寿都鉄道の湯別駅 - 樽岸駅間の廃線跡。
 Q樽岸駅(たるきしえき)は、かつて北海道寿都郡寿都町に存在した寿都鉄道の駅(廃駅)である。1920年(大正9年)10月24日に開業する。その後、寿都鉄道の駅として発展する。寿都鉄道の線路の路盤が弱いため、よく運転休止になる。昭和30年代ごろより、補助金が打ち切られ、寿都鉄道の斜陽と運命を共にすることとなる。1967年(昭和42年)には豪雨での朱太川増水による路盤流出や、同年11月頃の積雪による運行取り止めなどにより、1968年(昭和43年)8月14日に鉄道営業休止となる。その後、営業再開されず、1972年(昭和47年)5月11日に、寿都鉄道が廃業したのを受けて、完全に廃駅となる。
Q樽岸駅跡地の付近には、当駅の駅舎が農作業小屋として最近まで保存されている。
R寿都鉄道の樽岸駅 - 寿都駅間の廃線跡。橋台が残る。
R寿都鉄道の樽岸駅 - 寿都駅間の廃線跡。
S寿都鉄道の樽岸駅 - 寿都駅間の廃線跡。間谷の川(番屋の沢橋)にカルバートが残る。
@寿都鉄道の樽岸駅 - 寿都駅間の廃線跡。ヤマト橋にカルバートが残る。
A寿都鉄道の樽岸駅 - 寿都駅間の廃線跡。築堤が残る。
B寿都鉄道の樽岸駅 - 寿都駅間の廃線跡。
C寿都鉄道の樽岸駅 - 寿都駅間の廃線跡。
D寿都鉄道の樽岸駅 - 寿都駅間の廃線跡。
 E寿都駅(すっつえき)は、かつて北海道寿都郡寿都町に存在した寿都鉄道の駅(廃駅)である。駅構造は
南東の黒松内方面から北西方向へ伸びる構内で、駅舎は東側(海側)の北寄りに有り、駅舎に接する単式ホーム1面1線を有し、その本線は北側で引き上げ線となって構内端の踏切を超え、北側に隣接する土場の中央へ伸びていた。駅舎横の南側(黒松内方面)は切欠きの貨物ホームとなっていて、2本の貨物線が本線南側から引き込まれていた。駅裏側には2本の留置線とその外側に機回し線があり、その裏には南側端から炭水所と機関車庫、中央やや南に転車台、その北に気動車庫が設置され、それぞれへの多くの側線を有していた。また、駅裏北側には三菱鉱業寿都鉱山の積込みホッパーと引込線があり、北西方向の裏山にあった竪坑からのベルトコンベアがホッパーへ引き込まれて、当鉱山が閉山した1962年(昭和37年)まで稼働した。
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