更新日時 2016年02月06日

廃線探索 羽村山口軽便鉄道
 羽村山口軽便鉄道は大正5年から大正13年にかけて当時の東京市人工の増加に対応するため村山貯水池建設と羽村・山村線導水管布設工事を行い、さらなる人口増加に対応し、昭和4年から新たに山口貯水池の建設に着手、これに先立ち昭和3年に羽村・村山線に砂利運搬軽便軌道の布設が行われた。羽村堰で取水された水は江戸時代から明治・大正のころまでは、玉川上水を通って江戸・東京に送られていましたが、現在は、現在は水の多くは地下に埋設された羽村・村山線導水管を通って村山貯水池に送られています。地上部分は都有地で羽村市内の神明台地区では神明緑道という遊歩道として、武蔵村山市では自転車・歩行者道などとして整備されています。神明緑道は車が通らず、散歩道として市民に親しまれています。
 @羽村堰から玉川上水の下流約400メートルの位置にある導水ポンプ場からは小作浄水場(羽村市内)へ、水門からは村山貯水池(多摩湖・東京都東大和市)と山口貯水池(狭山湖・埼玉県所沢市)に送水されている。
@多摩川の原水の流れ図。
 @牛枠(川倉水制)昔の人たちは、祖先から受け継いだ知恵と自らの経験とに基づき、身近な素材を生かし自然と対話しながら、川を治めてきました。そうした治水の技術のひとつが、水の勢いを弱め、堤防が崩れるのを防ぐ「川倉」です。形が馬の背中に似ていることから「川鞍(かわくら)」と名付けられ、のちに「川倉」と呼ぶようになったこの仕組みには様々な種類が有りますがもっとも一般的なものは「牛枠(うしわく)」と言われています。「牛枠」は堤防に植えた河畔林を切り出し組立てます。木材だけでは水中で浮き上がるため、水の勢いに負けないよう、川床の玉石を詰めた蛇籠で固定します。堤防を強化する林が同時に治水の材料を提供する、優れた知恵によるものです。かって「牛枠」のほかにも、「聖牛(せいぎゅう)」・「笈牛(おいうし)」・「鳥脚(とりあし)」などの「川倉」があり、あちこちの川で働いていました。しかし今日ではほとんどその姿を見ることが出来なくなっています。
@羽村山口軽便鉄道の廃線跡。
A太い導水管。 A旧導水管の跡?
Aここから羽村・山村線導水管沿いに羽村山口軽便鉄道の廃線跡が続きます。
Aこれは何でしょう?燃料庫の跡でしょうか?
A多摩川から「インクライン」で砂利を運び出し、加美平団地あたりで軽便鉄道に積み替えた。
A導水ポンプ場からは高低差があります。
A羽村山口軽便鉄道の廃線跡の始まりです。
A水道用地の境界杭。 A羽村山口軽便鉄道の廃線跡。
B羽村山口軽便鉄道の廃線跡は道路に。 B道路の真ん中に境界杭が・・・
B羽村山口軽便鉄道の廃線跡。
C羽村山口軽便鉄道の廃線跡。
C羽村山口軽便鉄道の廃線跡は青梅線の線路を渡る。
C羽村山口軽便鉄道の廃線跡は青梅線の線路を渡り神明緑道として続く。
C神明緑道(羽村山口軽便鉄道の廃線跡)
D神明緑道(羽村山口軽便鉄道の廃線跡)
D加美平団地内を羽村山口軽便鉄道の廃線跡が通る。
D加美平団地の滑り台で遊ぶ息子。
D加美平団地を過ぎると道路を横断するが、そこには何かが埋設されている。
E神明緑道(羽村山口軽便鉄道の廃線跡)は加美平団地を過ぎても続く。
 E羽村山口軽便鉄道の廃線跡は協進印刷の敷地内を通る。導水管が埋まっている為オーバーブリッジで建物間を繋いでいる。(導水管が埋まっているため、杭が打設出来なく建物が建てられない)
E羽村山口軽便鉄道の廃線跡は協進印刷を過ぎても続く。
F羽村山口軽便鉄道の廃線跡。
Fここから先は米軍横田基地の米軍ハウスになり、廃線探索が出来ない為、横田基地沿いに迂回する。
 G米軍横田基地近くの八高線は横田基地と米軍ハウスの間を通る。八高線米軍横田基地付け替え線
H羽村山口軽便鉄道は米軍横田基地を過ぎるとIHI航空宇宙事業本部瑞穂工場内を通る。
HIHI航空宇宙事業本部瑞穂工場内を通る羽村山口軽便鉄道の廃線跡。
HIHI航空宇宙事業本部瑞穂工場内を過ぎると羽村山口軽便鉄道の廃線跡は続く。
H羽村山口軽便鉄道の廃線跡はここから多摩湖手前まで遊歩道として整備されている。
I羽村山口軽便鉄道の廃線跡。
J羽村山口軽便鉄道の廃線跡を歩く息子。
K堀川橋から見た残堀川。ここには橋梁が架かっていたと思われる。
   
 K残堀川を渡り羽村山口軽便鉄道の廃線跡は続く。
K残堀川砕石場跡には採石を運ぶコンベア等の基礎が残る。
   
L羽村山口軽便鉄道の廃線跡。
M羽村山口軽便鉄道の廃線跡。 
N羽村山口軽便鉄道の廃線跡。
O羽村山口軽便鉄道の廃線跡。
P羽村山口軽便鉄道の廃線跡。
Q羽村山口軽便鉄道の廃線跡。
R羽村山口軽便鉄道の廃線跡。導水管の通気口が見える。
S羽村山口軽便鉄道の廃線跡。
S羽村山口軽便鉄道の廃線跡。横田トンネルが見えるがその前に・・・
@雀の子供かそれともけがをしているのか逃げようとしない。
 
@武蔵村山市立歴史民俗資料館。
 @大正10年、村山貯水池(多摩湖)建設に際し、羽村堰付近から多摩川の水を貯水池に導く、導水管敷設のため、約7.5q区間の線路が敷かれました。3年後それは工事終了により撤去されましたが、昭和4年に山口貯水池(狭山湖)堰堤の砂利運搬のため復活し、これが軽便鉄道「羽村−山口線」と呼ばれ、当時は28台の機関車と450輌以上のトロッコがありました。昭和19年の堰堤嵩上げ工事まで活躍しました。現在その軌道跡は一部、野山北公園自転車道となっています。
@羽村山口軽便鉄道地図とドイッツ社製7tディーゼル機関車。横田材料運搬路一号隧道(横田トンネル)
S羽村山口軽便鉄道の横田トンネル(羽村側)
S羽村山口軽便鉄道の横田トンネル(羽村側)
A羽村山口軽便鉄道の横田トンネル(多摩湖側)
A羽村山口軽便鉄道の赤堀トンネル(羽村側)
B羽村山口軽便鉄道の赤堀トンネル(多摩湖側)
B羽村山口軽便鉄道の御岳トンネル(羽村側)
C羽村山口軽便鉄道の御岳トンネル(多摩湖側)
C羽村山口軽便鉄道の廃線跡。
D羽村山口軽便鉄道の廃線跡。
D羽村山口軽便鉄道の赤坂トンネル(羽村側)
E羽村山口軽便鉄道の赤坂トンネル(多摩湖側)
E自転車道は右側に折れて行くが、羽村山口軽便鉄道の廃線跡は真っ直ぐ進む。
F自転車道が分岐してから、暫くすると5号隧道がある。
F5号隧道は入口に柵があり進入が出来ないが・・・
G5号隧道の脇をピンクのリボン沿いに登る。
 G登り切ったら多摩湖自転車道に出るが、そこから先はフェンスが高く反対側の隧道に出られないのでフェンス沿いに迂回する。
H近道か?
 H近道かと思ったがトラップが・・・この高さを登る必要が有るが、誰かが同じように登ったのか、足をかける木が置いてあり何とか登れた。
I湖畔沿いに歩いて行くと橋の名称が可愛く表示されている。
Jほおのぎばし。 Jねむの木橋。
K埼玉県との県境。 Kこなら橋。
L羽村山口軽便鉄道の廃線跡はこの柵のゲート奥から柵沿いに続いていた。
M羽村山口軽便鉄道の廃線跡は柵沿いに続く。
N羽村山口軽便鉄道の廃線跡は柵沿いに続く。
Nここで羽村山口軽便鉄道の廃線跡は分岐していた。
N狭山湖方面への隧道が見える。
N多摩湖神社 Nあかまつ橋は羽村山口軽便鉄道の跨線橋。
Oあかまつ橋(隧道)からここまでは立ち入り禁止だ。
P羽村山口軽便鉄道の廃線跡は狭山湖の堤防沿いに進む。
Q羽村山口軽便鉄道の廃線跡は狭山湖の堤防沿いに進む。
R山口貯水池(狭山湖)
S山口貯水池(狭山湖)周辺のウオーキングマップ。 S昭和の高欄と親柱。
S狭山湖。
S狭山湖の築堤。
S小高い丘に用途が解らない石造りの建造物が有る。
Sこれも用途が解らない。トンネルの入口に大きな蜂の巣が叫び
Gここからは再び、多摩湖側に分岐した羽村山口軽便鉄道の廃線跡を辿る。
Hさくら橋から見た羽村山口軽便鉄道の廃線跡。築堤が解る。
I羽村山口軽便鉄道の廃線跡。多摩湖ルート。
J羽村山口軽便鉄道の廃線跡。多摩湖ルート。
K羽村山口軽便鉄道の廃線跡。多摩湖ルート。
L羽村山口軽便鉄道の廃線跡。この辺が多摩湖ルートの終点か?
Mこぶし橋。多摩湖。
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