更新日時 2012年06月24日

 霞ヶ浦駐屯地(朝日分屯地)専用線:霞ヶ浦駐屯地(JGSDF Camp Kasumigaura)は、茨城県土浦市右籾町2410および阿見町に所在し、関東補給処等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地である。南側に隣接する茨城県道203号荒川沖阿見線を越えた位置に航空学校霞ヶ浦校が使用している霞ヶ浦飛行場が、隷属する分屯地として朝日分屯地がある。戦前、第1海軍航空廠では、桜花など海軍戦闘機の開発が行われた。また山本五十六(連合艦隊司令長官・海軍次官)が大佐時代に、当地で副長及び、航空学校教頭などを勤めたことで、銅像が建っている。第一次世界大戦の戦勝国である日本がヴェルサイユ条約に基づきドイツから押収移設した飛行船格納庫があったため、前述のツェッペリン号の停泊地となった。戦後は取り壊されて、現在の霞ヶ浦駐屯地などになった。昭和27年10月、保安隊発足とともに武器補給廠として昭和28年1月、武器補給廠の恒久駐屯地設立の工事が茨城県土浦市の旧霞ヶ浦海軍第1航空廠跡地において開始され、昭和28年2月に霞ヶ浦駐屯地が開設されました。5月には武器補給廠から武器補給処と改称され、昭和29年1月に霞ヶ浦駐屯地に移動を完了した。常磐線荒川沖駅から専用線が敷かれており、昭和50年頃までは年に数回(主に年度末に)貨物列車が通っていた。現在は線路が撤去され、併走の道路が拡幅されている。
 @荒川沖駅(あらかわおきえき)は、茨城県土浦市荒川沖東二丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)常磐線の駅である。
 @荒川沖駅構造は相対式ホーム2面2線を有する地上駅である。ホームに接する上下本線のほか、その間に中線があり、貨物列車の待避や土浦始発の下り列車の回送などに使われる。駅舎は橋上式である。みどりの窓口(営業時間6:00 - 21:00)や自動改札機、指定席券売機、Suica対応自動券売機・自動精算機が設置されている。改札口やホームにLED式の発車標が設置されている。JR貨物荒川沖駅は、2008年3月現在、臨時車扱貨物のみを取り扱っており、定期貨物列車の設定はない。
 @2006年までは駅前にある日立セメント荒川沖サービスステーションのセメント荷役設備とそれにつながる専用線があり、当駅にはセメント(日立駅発送)の到着があった。また、1985年頃までは駅東方にある陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地へ続く専用線も存在していた。
@日立セメント荒川沖サービスステーションのセメント荷役設備。
@霞ヶ浦駐屯地(朝日分屯地)専用線は荒川沖駅を出て、直ぐに東側へ分岐していた。
A霞ヶ浦駐屯地(朝日分屯地)専用線は常磐線とここで分岐していた。
B霞ヶ浦駐屯地(朝日分屯地)専用線の廃線跡。
C霞ヶ浦駐屯地(朝日分屯地)専用線の廃線跡。道路に転用されている。ここで朝日分屯地と分岐。
D朝日分屯地専用線の廃線跡。廃線跡は歩道工事が行われている。
E朝日分屯地専用線の廃線跡。歩道の工事はここまでの様だ。
F朝日分屯地専用線の廃線跡。バラストが残っているのが解る。
G朝日分屯地専用線の廃線跡。廃線跡と解る長細い土地だ。
H朝日分屯地専用線の廃線跡。ここから先は朝日分屯地内へ。
I霞ヶ浦駐屯地専用線の廃線跡。完全に道路に転用されている。
J霞ヶ浦駐屯地専用線の廃線跡。
K霞ヶ浦駐屯地専用線の廃線跡。
L霞ヶ浦駐屯地専用線の廃線跡。ここから先は廃線跡と解る土地が続く。
M霞ヶ浦駐屯地専用線の廃線跡。この先に機関庫が有ったようだ。
1948年12月04日撮影の第1海軍航空廠(霞ヶ浦駐屯地)の航空写真に謎のラインが見えるが線路跡か?
N霞ヶ浦駐屯地裏の廃線跡?と思える場所。
M廃線跡?と思える場所の分岐部分。
 N現在は右籾小学校敷地になっているが、右籾小学校は昭和54年に開校になっているので、航空写真に写っている建物は右籾小学校ではなく、軍事施設か?
O廃線跡?と思える場所の左分岐部分は畑になっている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
廃線探索 霞ヶ浦駐屯地(朝日分屯地)専用線